カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


「エモい」という記号化された感情とWEBメディアの文章/『でも、ふりかえれば甘ったるく(PAPER PAPER)』

「これエモくないすか?」

ということをいわれ、

「なにそれ?」

と返したのは、たぶん2年か3年かまえのことだったとおもう。

ことばはいつも知らないうちに次々とどこかから生まれ、ある程度パッケージ化された状態で情弱のぼくの手元に届くわけだけれど、「草食系」とか「まじ卍」とか、それらがたくさんのひとに使われるなかで意味は固定されていく。特定の意味を指し示す記号としてこれは言語本来のありかたで、しかしこうした語彙の氾濫は認知や描写の粗雑化を招いているような心許なさを、わりと強めにぼくはかんじている。

 

はじめにいっておくと、「エモい」ということばの厳密な意味やら由来について、ぼくの興味は皆無だ。なにに興味があるかというと、後述するが「エモい」ということばの使われかたであり、このことばをとりまく構造だったりするものだ。だからぼくはある種の記号として、以下で「エモい」ということばを使うことにする。この点についてご容赦いただきたい。

 

いちおう簡単に調べてみると、「エモい」ということばは、

『感情が動かされた状態/感情が高まって強く訴えかけれる心の動き』

を指すようで、「emotional」を語源に持つという。あるいはロックの形態「emo」に由来するとかなんとかあるらしい。よう知らんけど。

この様は、感極まって適当なことばで言い表すことが不可能になった状況下で使用され、友人がいうに、「あわれ」ということばにちかいらしい。

もちろんぼくはそういう状態や感情じたいに否定的な立場を取る気はない。しかし、「ことばで言い表せない」という意味こそが悪い意味で「便利すぎる」ものであり、「ことばで言い表せない」とひとこと言いさえすれば、だいたいのことはだいたいのひとに伝わってしまうのが問題だとおもう。

これは「伝わることが悪い」という意味じゃない。

芽生えた感情を「言い表せない」と粗雑化することでその場をしのいでいるに過ぎず、「エモい」をはじめとするこうした便利言語の話者がそのことに無自覚であるきらいがあるということに、ぼくの問題意識がある。

 

さいきん、株式会社シネボーイによる出版レーベル「PAPER PAPER」から発行されたエッセイ集『でも、ふりかえれば甘ったるく(以下、でもふり)』を読んだ。

この本のタイトルはあからさまに「エモい」を想起させるが、読み終えてみるとこの「エモい」ということばについて自覚的なコンセプトをもった本だったとかんじた。

 

 

目次

  •  ネットの文章は「読者」によって書かれている
  • ことばの「氾濫」と「速さ」
  • 「わかりえない」という正義
  • 『でもふり』で自己言及的に扱われた感情の定型

 

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フリーライターの「てめぇには1分の価値すらねぇよ」問題について

 

 

にわかに信じがたいことだが、さいきんぼくの意識が高い

 

もともとはいわゆる意識高い系についてネチネチ因縁をつけて意味不明なdisをおこなうクソみたいな陰湿ネクラなのだけれど、フリーライターとして生計を立てようとすると、そういうスタンスではとてもじゃないけれどやっていけない。

原稿料もそれほど高くない駆け出しライターなので、だいたい会社員時代くらいの手取りを得ようとするならとにかく数をこなさなくちゃならず、すると記事で扱う内容も雑多なものになってきて、何かと調べなければならない。ぶっちゃけ、記事を書いている時間よりも調べたり勉強したりしている時間の方がはるかに長い。

となると、必然的に業務効率を上げていかないといけない。いわゆる「効率厨」はぼくの侮蔑対象のNo.1だったけれども、そんなものをdisっている暇も精神的余裕もなくなってしまった。

仕事がないと死ぬ。

この絶対的な事実しか目の前にはない。

 

で、さいきんの悩み事は冒頭で貼り付けたTwitterでのぼくのつぶやきである。

前職は週単位で締め切りがあったので、かなり時間にはうるさい職場だった。業務が発生したらその場で「いつ」するかを決めなければ永遠に延期されてしまうし、安定して仕事をそつなくこなすには先方とのスケジュール調整をしっかりやっておかなくちゃならなかった。

お互いの利害をきちんとコントロールして、ルールを作る。

これが商売の基本だと教わった。

 

目次

  • みんな「締め切り」が嫌い説
  • レディ・ガガから仕事の話がきたら、みんなのタイピング技術が火を吹くはずだ
  • 相手の1分にコミットする
  • まとめ

 

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2つの怪文書/おばけ家族はいつから家族か

さきにまず今週の寄稿の紹介を。

 

『リキッド・サーベイランス』についての怪文書

まずテクノロジーやカルチャー系の話題を多く取り扱っているWEBメディア『UNLEASH』さんに社会学者の対談本の書評(?)らしき怪文書を掲載していただきました。

 

unleash.tokyo

 

ぜんぜんトレンドでもなんでもない、ちょっと前に出た本なのだけれど、最近になってslackやTrelloといったツールを使うようになって、組織が「液体みたい」に振る舞うことを実感して、こういうことをちゃんと書いておきたいとおもった。ダメ元で提案したら快諾していただけてとてもうれしい反面、このような話題に興味を持ってくれるひとってどれだけいるんだろうと不安になった。

途中でかつてゴリゴリにやっていた分子動力学シミュレーションの話をしているように、こうした発想というのは実はついさいきんにはじまったことじゃなく、むしろ大学院生のときに割と真剣に考えていたことだった。統計力学をやっていると、あらゆる集団についてその構造とポテンシャルを反射的に考える癖みたいなのができて、それを軸にいろんなものを観察すると、感覚的にではあるけどなんとなく「しっくり」くることが多かったりする。そういう話を積極的にしようにも、定量性やらなにやらの裏付けというのがだいぶダルくて、いまおもえばそのあたりをひとまずすっ飛ばして議論できる方法として「フィクション」を考えるようになったのかもしれない。

メタファによる跳躍はいろんなものを有機的に結びつけるという長所があるけれど、しかし「メタファとして使用されたメタファはメタファでしかない」という弱さがある。そのあたりの克服について、これからももっと考えなくちゃならないなとおもった。

ともあれ、懐の広いUNLEASH編集部のみなさんにはとても感謝しています。

 

『人工知能(AI)と新卒採用』についての怪文書

こちらは前回おもいっきり書き散らさせてくれたワンキャリアさんに掲載してもらった。

www.onecareer.jp

前回の「学歴イジり」の記事とはちがっていたって真面目に書いた。これについて、個人的にちゃんといっておきたいことがあって、それをどうにかかたちにしたいという意志が強くで過ぎてしまったかもしれないけれど、この記事がこのかたちで出てくれることはとてもうれしい。

 

きょう公開になった以上ふたつの記事はぶっちゃけ読むのにすこし体力がいるかもしれないけれど、「だれでも無料で気軽にアクセスできるWEBメディア」だからこそ、インスタントな反応をうながすのではない記事にこだわりたいなぁとおもう。

これまでぼくはライターという自覚がほとんどなかったけれど、ライターである以上、ひとつだけ何かこだわりみたいなのはなくちゃならないとおもうし、ぼくのこだわりが不必要だといわれたら、そのときはおとなしく転職するしかないんだろうなとぼんやりおもう。

 

おばけのコックさんのおばけ家族はいつから家族なのか?

ブログではたぶん久しぶりのうぇい太郎(息子)の話。

うぇい太郎は絵本が好きで、寝るまえはかならずお気に入りの絵本を3冊枕元に持ってきて読むのをせがみ、眠れなかったらさらに本棚から絵本を持ってきて多いときには布団のなかで10冊ほど読まされるはめになる。

 

 

で、最初の1冊はかならず「おばけのコックさん」だと決まっているようで、か行をうまく発音できないかれは、

「おばへのポップたん……!」

という。1回無視すると、

「おばへの……ポップたん……」

と弱々しくなり、さらに無視すると、

「おばへのポップたん!」

といって怒る。

このお話は、ふたりの見習いコックのおばけ(ペーたろ、ぽいぞう)と親方、ウェイトレスのふにさん・へはさん・ほよさんで営業しているおばけのレストラン「おばけてい」に、おばけ家族(おとうさん、おかあさん、さくぴー、たろぽう、おじいちゃん、おばあちゃん)が、さくぴーの誕生日祝いのために来店するという話だ。

うぇい氏ともう何百回と読んできたこのお話だけど、読むたびに気になることがあって、それは「おばけ家族はいつから家族なのか」ということだ。

おばけ家族は生前から家族だった6人なのか、それとも死んでおばけとして生き直しているおばけがおばけとして生殖して家族をなしているのか。この解釈次第で「おばけが家族で誕生日を祝う」ということの意味はずいぶんと変わってくるな、と反射的に考えてしまう。

しかしこの「おばけ家族」シリーズで描かれる多幸感に満ちたおばけたちの生活には、死というものを一切かんじさせない不思議な重力が働いていて、まるで月面を歩くかのようなおぼつかない、ふわふわした足取りでページをめくることになる。そんな生き死にのことを考えていると、息子がまえに泣いたことをおもいだした。

 

いまのところ、息子は絵本とぬいぐるみが好きな男の子だ。

学歴イジりについてのあれこれ

さいきんは書きたいことをほぼ寄稿記事に書かせていただいていて宣伝ばかりで恐縮なのだけれど、就活サイト『ワンキャリア』さまに、コラムを掲載していただいた。

 

www.onecareer.jp

 

一部、話を盛っている箇所もあるのだけれど、ほぼ実話をこのコラムで書いた。

学歴の話でいい思い出はほとんどないのであんまり触れたくはなかったのだけれども、しかし事実として「高学歴のくせに!」というイジりはジョークであれマジであれたくさんあって、しかしそんなこと改めていわれなくても、「高学歴」と呼ばれるキャリアを歩んできたひとほど「学歴」なんて能力を保証してくれるものじゃないことぐらいよくわかっている。

そのことをきっちり書いておきたかったという気持ちがどこかにあったので、こういう機会があってよかったな、と素直におもった。

 

また、ユーモア系の記事がはじめてだったのもあってかなり反応にビビっていたけれど、いまのところ概ね良好でホッとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 ぜひ文字どおりご笑覧いただけると本望です。

 

就活生ほど「学問」としっかり向き合ってほしい

ぼくの最大の主張はこれだ。

ぼく自身はあまり真面目に就職活動をしなかった人間だから就活そのものの言及はほぼできないのだけれど、5年ほど大学院にいたら就活生をたくさんみることになった。

新卒での就職は人生を左右するレベルで大きなイベントだというのは現状あるけれど、「どこに就職するか」ばかりにとらわれて「けっきょく勉強なんて意味がない」というような結論にいたる学生というのは多い。

学問は直接実務に還元されるものではないケースが多いのはたしかだけれど、しかしだからといって学ぶことそのものを否定してしまったら、そのひとは一生なにも体系的に学ぶことはなくなり、体系的に学ばないというのは、脊髄反射的な雑な思考しかできないということだとぼくはおもう。

ぼくがこの記事で書いたのは「くだらない処世術」だけれども、就活生にはこの他にもたくさんある処世術ばかりを信じるひとになってほしくない。

そういう意図をこの記事から読み取ってもらえるとうれしいなぁ、とおじさんはおもった。

文学作品の書評寄稿についておもうこと/「名前があるひと」になること

UNLEASHさまに、コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』の書評を寄稿しました。

 

unleash.tokyo

 

2月中になんとしてでもこの書評の受け入れ先を見つけようと決意して、けっこう必死に(半ばムキになって)提案をしまくっているなか、運良くUNLEASHさんに受け入れていただけた。

文芸書評について、ぼくはここ数年このブログでひとりゴリゴリと書き続けてきて、そして「めんどうくさい」内容であるにもかかわらず、一部の小説好きのひとたちから「おもしろかったよ!」といってもらってなんとか続けてきた、という感じだけれど、いざ書評を仕事にするとなるととてもむずかしい。ここ2年ほど、それをすごく痛感した。

 

「本が売れる/売れない」の問題は実際にあるのだけれど、それ以上に書評はべつに「プロの」ライターが書かなくてもいいみたいな風潮を感じるし、なにより読者の自発的なレビューの説得力というのはすさまじい。この「読者」と呼びうるすべてのひとたち一人ひとりにそれぞれの読書経験や趣味趣向があるわけで、一概にひとくくりにすることなどできないのだけれど、その多くはひとこと「おもしろかった/おもしろくなかった」の結論を手短に書いたものが多い。どれだけそうした「感想」の数が集まったか、という「量」が書評としての説得力を強くし、それが「真の読者の声」という風な印象を与える。そうなると、そもそも「ライターに金を払って書評を書いてもらう」というのはバカらしいのかもしれないな、と感じた。もちろん、これは個人の所感にすぎないし、真剣に主張する気もない。

 

ずっと言われてきたことだけれど、ぼくのレビューは長い。

そして長い上に実作上の諸問題を取り上げたり、個人的な読書という営みについて書いたり、他の作品と横断的に話したりする。時間が経つと書いた本人ですら一読してもその意図を読み取れない(!?)ことがあって、明らかにWEBメディアの文章に向いていない。

ぼくとしては「読書ってなんだろう?」みたいな問題意識があって、それがあるからずっと読書を続けているのだけれど、書評を仕事にするにあたって「それが一番邪魔」というのが現実としてある。どれくらいその本が検索されるのか、おもしろいのかおもしろくないのか、映画化するのか、文学賞はとったのか、という対象作品の外的な要素の説明(作品の商業的な位置づけ)をきちんと調べ、それをあらすじとともに小綺麗にまとめる能力が「WEBライターの価値」として評価されている気がする。書いたひとの読書はまったく必要とされない。だから、「読書ってなんだろう」という思考を進める行為として読書を書くことはできなかった。

それはあんまりだ!と思っていた矢先、UNLEASHさんに「書いていいよ」といってもらえたのはとてもありがたいことでした。ありがとうございます。

皆さんもぜひ、『地下鉄道』を読んでみてください!

 

拙作『コロニアルタイム』にアマゾンレビューがつきました

今度は「作者」としてのうれしさなんだけれど、昨年秋に発売した短篇集『コロニアルタイム』にアマゾンレビューがつきました。

 

 

ほかにもグレッグ・イーガンの翻訳でおなじみの山岸真さんや、『構造素子』でハヤカワSFコンテスト大賞を受賞した樋口恭介さんにも拙作をコメントしていただいたりしていて、ゆっくりとですが、読んでくださる方が増えていることがうれしい。

 

 

 

この小説についてひとことだけいうと、樋口さんが指摘するように「細かいところで色んな仕掛け」があるのだけれど、それすべてがぼくにとってとても大切なもので、大切だからぜんぶ詰め込んだという感じで、そしてそれをぜんぶ詰めこめるだけの規模の小説にしよう!とおもって書いた。それゆえに「難しさ」が出てしまったのはぼくの力不足でもありますが、しかし「わからない」という感覚こそがぼく自身を読書にかりたたせるものだから、それを楽しんでもらえたというアマゾンレビューの感想は、ほんとうにとてもうれしいものだった。

Amazonでの匿名の方のレビューと、上記のおふたりのような「名前のある」方々のレビューは、もらった本人として綺麗事でもなんでもなく、どちらもおなじくらいうれしいかった。けれど、うれしさのベクトルというものは違っていて、匿名の方のレビューは「これだけいろいろやり散らかして大丈夫なのか?」という作者としての不安に対して「大丈夫だよ」といってもらえたような安心がある。

そして「名前がある」方のレビューというのは別の安心があって、たとえばおふたりは「グレッグ・イーガン」という大SF作家の名前をあげて言及してくれているけれど、こうしたハードSFに深い理解がある読者というのは、正直なところ一番こわかった。いってみればあたらしい数学や物理、音楽をつくったりする小説だったので、どこかで「大嘘」をつかなくてはいけなくて、その嘘のつきかたがハードSFにとって非常に重要な問題になる。このあたりは(ぼくの小説に限らず)どれだけ緻密にやっても絶対にどこかで悪い違和感が生じてしまい、それがそのまま作者の力量として読まれてしまうこわさがあるなか、このジャンルにおいての世界最強の強度(!?)を持つイーガンの名前を出してくれるのは、「ちゃんとできてるよ」といってもらえているみたいでうれしい。

そして、樋口さんからは「きっとこれまでに読んできた小説たちが似ているんだろうな」といってもらえて、ぼくもまた『構造素子』を読みながらそんなことをおもっていたのでうれしかった。

 

 

「名前があるひと」

「名前があるひと」として実作したり書評を書くことは、その名前の歴史をつくることで、ひとつの作品について語るわけじゃなく、その名前の文脈において読書して実作する。

それをきちんとつくれるよう、ひとつひとつ、いただいたお仕事をきっちりすることしかいまはできなくて、いつかぼくの名前がつくる文脈がだれかの安心やよろこびに繋がればうれしい、とおもった。