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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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現実への援用として、あるいはピグマリオンの彫刻としての私小説/山本浩貴+h「草のあいだから」(文鯨2号掲載)

オススメ 読書

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山本浩貴+hというちいさな小説家について、ここでぼくがかれをどう認識しているか、できるだけ正確に書いておきたい。

 

もっとも影響をうけた作家はだれかというありがちな質問に対し、ぼくは決まってトマス・ピンチョン、リチャード・パワーズ、そして山本浩貴+hの名前をあげるのだけど、すると(極めて不本意なのだけれど)決まって失笑されてしまう。山本はまだ大手文芸誌で作品を掲載されたこともないわかい、そしてアマチュアということになるこの作家だけれども、しかしその深い思考と内省、(年齢に対してずばぬけて)豊富な読書経験、そしてなによりもそれらを実作に還元する力に関して、はっきりいってしまえば既存の「プロ」の作家をはるかにうまわまっている、とぼくは確信している。かれ自身、ぼくがこういうことをこうしてひとの(そしてじぶん自身の)目に触れるところで堂々と書かれてしまうことは本意ではないだろうけれど、できるだけはやいうちにこれはいっておかなくてはならないとずっとおもっていた。

もちろん、かれ(ら)の作るものが、小説というものをもっとも切なるものだとは考えないひとたちが完読できうるものかという点で、正直まだ課題は山積しているとはおもう。そして書かれることばやエピソード、それらが結晶化することにより生まれる物語が、語り手の支配下にありすぎてしまっているというもどしさもある。ただ、そういうものはいま最良のものを書こうとするなかでいずれ自然と解決される問題であるのと同時に、実践としての文学としては究極的には副次的な問題でしかないだろう、とぼくはかんがえる。特定の一作によりそういった問題が解決されるより、作品の系譜を自身で作り上げることにより時間を経て解消されたほうがいいようにおもえてならない。

 

かれはクラウドファンディングで資金を募り発行されたという文芸誌「文鯨」に短編小説を寄稿している。

twitter.com


このエントリーではその小説について、ぼくがどのようなことをおもい、考えたかを書き、また「私小説」というもの一般のことを考えてみる。

 

目次

  • 短編「草のあいだから」の物語構造
  • 死生観をのりこえた場所
  • 「私小説」と「ガラテア」
    • 私小説という技法に関してもうすこしだけ。
  • あわせてどうぞ

 

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短編小説「イルイナイ」(2012年版)

創作小説

5年前に描いた習作を発掘したので、だいぶ荒いけれど公開することにしました。

同人誌「らくせんvol.1」に掲載した「ヒア・ゼア・エブリウェア」という長めの小説の原型だとおもう。

きっとこれをかいたひとは、ふたつのちがう空間を重ねみたものを書きたかったのでしょう。

 

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「この瞬間」の快楽/小説「ダロウェイ夫人(ヴァージニア・ウルフ)」感想

読書

このエントリーはヴァージニア・ウルフによる小説「ダロウェイ夫人」の内容に関する言及があります。

 

村上春樹はかつて河合隼雄との対談で小説をひとつの家にたとえた。以前、京都大学で行われた河合隼雄文学賞の受賞記念講演の際、この話を村上春樹はしていた。

「小説という家には一階にひとびとが集うエントランスがあり、二階にはその家に住むひとたちプライベートな部屋がある。そして地下室には、普段ぜったいにだれかの目に触れられることのない、物語の残骸が多くしまいこまれている。小説というものをつくるだけであれば、この部屋というものは必ずしも必要ではないけれど、小説が優れた小説となるためには、この部屋の奥深くに足を踏み入れなければならない」

 

ヴァージニア・ウルフの代表作とされる「ダロウェイ夫人」を3日ほどかけて読み終わったのだけれども、読み終わって、本を閉じて、最初に頭に浮かんだのはこの村上春樹のことばだった。

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

 

 

この小説は第一次世界大戦が終わったあとのロンドンの、上流階級の婦人クラリッサ・ダロウェイある6月の1日を舞台にした小説であり、話の大筋は朝にクラリッサが花を買いに出かけ、自宅でおこなわれるパーティーが終わるその日の深夜までの平凡な生活が書かれている「だけ」だ。

ありきたりな話をすると、この小説の最大の特徴は三人称で書かれる物語のなかに、さまざまな登場人物の胸の内の独白や過去の記憶が「わたし」や「おれ」といった一人称で突然語られるといった表現形式にある。これはジョイスやプルーストといった同時代の作家たちも多用した「意識の流れ」という技法として、現在モダニズム文学を語るうえで極めて重要な叙述形式であると知られているもので、このような作家群だけでなく、近年の小説を読むにあたっても知っておいて損はない。

たとえばこのあいだ芥川賞を受賞した山下澄人の作品であったり、日本文壇で一大派閥となりつつある保坂和志たちの小説も、直接的ではないにしろ、こうした人称と認識を切実な問題ととらえた文体は、いわゆる「意識の流れ」が提起した語りのありかたのひとつの変形としてあるのだと読んでも悪くないとおもう。

しかし、こういった技法にとらわれ過ぎてしまうと往往にして小説の読みかたというのは粗くなってしまう。小説のなかで、物語のなかで、いったいなにが起こっているのかということに耳をすますことができないならば、小説を読むことにおいて技法の知識というのは害になってしまう。それは逆に、技法ありきでつくられ「過ぎて」しまった小説がつまらないという理由にも一致する。

 

以下、「ダロウェイ夫人」のレビューを書く。

 

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「私小説」という牢獄/第156回芥川賞「しんせかい(山下澄人)」 

読書

※このエントリーは山下澄人による小説「しんせかい」の内容に関する言及があります。

 

しんせかい

しんせかい

 

 

きのうから立て続けに文学賞受賞作を読んだ。芥川賞についてはいつもは候補作をすべて読んでいるのだけれど、今回は時間が取れず、候補作は1作も読めていなかったからちょっと変な気分になった。

山下澄人の芥川賞受賞は、率直にいってうれしい。

山下澄人という作家が描く世界は、いつもあいまいでぼやけている。それは語り手である「わたし」が、「わたし」というじぶんであるという認識が希薄であるが故に、かれが語る世界さえも世界としての自覚をもたないからなのだろうとおもっていた。「わたし」は作中で簡単に「わたし」であることをやめてしまうし、語れば語るほど「わたし」は「わたし」から遠ざかり、過去や現在といった時間、ここでない場所が語り手にとってすべて等価な価値を持つようになる。

比喩がほとんど排除された簡潔と文章によって目の前に作り出される曖昧模糊とした認識世界は、見通しの悪さゆえのはるかな広がりを持っていて、極めて独特な読書体験へとぼくらを連れ出してくれる。

しかし、この書き方であるがための弊害というのももちろんあって、それは、すべての作品がおなじような印象を受けてしまうこと、そして語られる世界であり内容よりも文章技巧が議論され過ぎてしまうことだ。

しかし、受賞作「しんせかい」は従来のかれの作品とはまた違った感触があった。

きょうはそのことについて書いておこうとおもう。

 

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第156回直木賞「蜜蜂と遠雷(恩田陸)」/「スポ根」と「天才信仰」

読書

※このエントリーには恩田陸による小説「蜜蜂と遠雷」の内容に関する言及があります。

 

蜜蜂と遠雷 (幻冬舎単行本)

蜜蜂と遠雷 (幻冬舎単行本)

 

 

むかし、無伴奏バイオリンソナタ第1番(フーガ)のレッスンを受けていたとき、先生に「煽情的なバッハはひとりよがりだよ」と注意された。

厳格な理論に基づいて構成されたバッハの音楽を、無知のまま演奏することは恥というよりもむしろ損といったかんじがする。たとえばギタリストにはおなじみの曲、BWV998のプレリュードは緩慢な低温の上に、素朴な単旋律が乗っているだけに見える。しかし、多声音楽という目をもち、調性の動きに耳を澄ませると、単旋律のなかにいくつもの別の声を見つけ出すことができる。あくまでそれは先生とぼくがレッスンのなかで行った解釈でしかないけれど、しかし楽譜や音楽理論によってもたらされる限定的な状況というのは奏者の外部に広がっていたりする。それからこんなこともいわれた。

「厳格な理論に基づくからといって、バッハの音楽に感情がないなんてことはありえない」

 

こんなかんじのぼくの思い出は、クラシックギターをわりとまじめに弾いていた10年ほど前のことなのだけれど、小説「蜜蜂と遠雷」で主要人物の少年が演奏した平均律クラヴィーアが「煽情的」と審査員にコメントされるシーンを読んでいるときにおもいだした。この小説は、とある国際ピアノコンクールの出場者(コンテスタント)の群像劇として構成されている。

コンクールに出たことはないけれど、ピアノであれギターであれ、バッハの曲はテクニックはもちろん、音楽に関する理解、あるいは理解しようとする態度がもろに出てしまう。そういうわけで、へたに人前で弾くことは躊躇してしまうのだけれど、洗練されたバッハ音楽に傾倒するひとはプロアマ問わず少なくない。ロマンティシズムに陥ったバッハはよく多声性を失ってしまって、甘ったるく平板な音楽になりがちで、煽情的と評されるバッハで意見が割れるという状況はぼくにとってはかなり不可解だ。この不可解というのはフィクションの醍醐味でもあって、実は結構気に入っている。

 

この小説は読み方次第で(それこそ楽譜のように)解釈が大きくことなる作品のようにおもえる。そこが読んでいておもしろかったことだ。

白状すると、ぼくは「音楽小説」であるとはおもえなかった。

むしろこの小説は、「テニスの王子様」「ちはやふる」といった、スポ根作品の系譜にあたるものなんじゃないかとおもっている。今日のエントリーはひとことでいえば、この主張に尽きる。

最初に「音楽小説」と「スポ根小説」について便宜上、以下のように定義しておく。

音楽小説:音楽という表現が中心にある小説

スポ根小説:勝ち負けが中心にある小説

 というわけで、以下では小説「蜂蜜と遠雷」をぼくがどう読んだかを書いていく。

 

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