カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


【書評】はあちゅう「通りすがりのあなた」/世界とわたしの鬼ごっこ

※本エントリーには、はあちゅうの短編小説集「通りすがりのあなた」のネタバレはありませんのでご安心ください。

 

 

書きにくい書評というのはふたつあって、1つは作者が知り合いであること、そしてもう1つが本職が小説家でない有名人の小説だと個人的におもっている。

前者についてはやっぱりネガティヴなことを書くときにどうしても作者の顔がチラついて萎縮してしまうことがあるのだけど、ここ最近は「それはそれ、これはこれ」と割り切って知り合いだろうが他の作家と書評の書き方を基本的に変えないことにしたら、わりにみんなよろこんでくれた。

そして今回とりあげる作品、はあちゅう「通りすがりのあなた」は後者のタイプに相当する書きにくい書評なのだけど、このタイプのものは安易に「おもしろくない」と言いにくい性質を持っているからだ。

そもそも小説を「おもしろくない」と断言することの方がむずかしいのだけど、作者が著名人である場合は妙なバイアスをものすごく感じてしまう。

書き方を間違えれば「本業じゃないひとをたたきたいだけのひと」ととらえられかねないし、そう思われるのはこちらもしてもだいぶ部が悪い。

早い話、又吉直樹くらいにわかりやすく傑作を書いてくれればすんなり書けるのだけど、世の中はそんなに甘くない。というか、本業小説家の作品であっても基本的に「手放しで褒めたい」ようなものはなかなかお目にかかれないのだけど。

ともあれ、ぼくとしては本業が小説家であろうとなかろうと、肩書き的なものは小説のおもしろさに影響を与えることはないと考えている。

 

というわけで以下で「通りすがりのあなた」の感想をはじめていきたいとおもう。

 

目次

  • 内容的なもの
  • ブロガーの生存戦略
  • 「ブログ的な小説」とは?
  • 「ブログ的な小説」が文学勢に黙殺される理由
  • 世界とわたしの鬼ごっこ

 

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文芸誌を読むということ/おもしろい・おもしろくないを言い切る尊さ

長編を読み切る時間と気力がないのだけれど(その割に実入りが悪い)、いちおう毎日本は読んでるので、きょうは最近読んだ文芸誌の短編・中編の感想を書きたいとおもう。

読んだのは「文藝2017年冬号」「たべるのがおそいvol.4」だ。

 

 

そのまえに、ちょっとだけ文芸誌の話を。

 

文芸誌というものは知らない人は永遠に知らないものだけど、とにかくどこの会社でも赤字事業として出版業界では有名らしい。

今年の初めか去年の年末か、はあちゅうが講談社の文芸誌「群像」に短編を掲載したとき、誰かとの対談で「文芸誌を読んでいるひとなんてあったことない」といっていた。

この認識はけっこう文芸誌の認知度を客観視するうえでわりと重要なもので、すなわち

「読書好きとおぼしきひとさえ、その大部分が読んでいない」

ということを意味しているととらえるとわかりやすいかもしれない。各文芸誌でも特にここ数年は読者確保にかなり四苦八苦しているなというのがひしひしと伝わってくる。

はあちゅうの件の短編集はいくつか追加されて最近本になった。

 

 

この小説についてぼくは特に言及したいことはないのだけれど(おもしろい・おもしろくないではなく、小説観があまりにも違いすぎる)、ただ一言だけ「群像」には言いたいことがある。もっと他に「群像」だからこそ推すべき作家がいたんじゃないか?

「純文学はこういうものだ!」という線引きをしてほしいというわけじゃなくて、少なくとも「群像じゃなくていい小説」と「群像だから載せられる小説」というものは一定数存在していて、ぼくにとってはあちゅうが群像に掲載した3つの短編は前者に相当すると思えてならなかった。

ちなみに後者に該当しそうな小説をかけそうなのが「世界一即戦力な男」「二代目水嶋ヒロ」「カップ焼きそば文体模写」で話題になったWEBライターの菊池良(今月号のベスト3にも出てた)なんじゃないかという期待が個人的にあるので、こういう人にはどんどん得体のしれない小説を書かせてほしいともおもう。

 

 

目次

  • かつてあった文芸誌レビューブログのおもしろさ
  • 町屋良平「水面」(文藝冬号)/「身体性」に定義を与える小説
  • 宮内悠介「ディレイ・エフェクト」(たべるのがおそいvol.4)/過去の想起と視認はまるでちがう
  • 木下古栗「人には住めぬ地球になるまで」(たべるのがおそいvol.4)/「アイドルにすかし屁させる」小説

 

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「何者でもないわたしたちという誰か」のこと〜ノーベル賞、カズオ・イシグロ、現代世界文学とオートフィクション、母国語至上主義について

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きのう今年のノーベル文学賞がカズオ・イシグロに決まったというしらせをきいて、あまりにもびっくりして声が出てしまった。

もちろんカズオ・イシグロはいうまでもなく優れた作家であることはわかっていたのだけれども、2年連続英語圏の受賞ではないだろうなとおもっていたし、それにイギリスにはイアン・マキューアンがいるから「まさか!」というおどろきが強かった。

はずかしながらカズオ・イシグロはブッカー賞を受賞した「日の名残り」と、日本で話題作となった「わたしを離さないで」くらいしか読んだことがなく、現状ぼくがカズオ・イシグロ作品についてなにかを考えるのはむずかしい。

 

 

ということで、初期の作品である「遠い山なみの光」と「浮世の画家」をさっそく買ってきた。この二作は日本が舞台となっている。

それにしても、カズオ・イシグロ作品は電子書籍化されているのがありがたい!

 

 

ジュンク堂には記者のひとが取材にきていて、店内でも電話が鳴りっぱなしだった。カズオ・イシグロのコーナーが急造されていて、記者のひとはそこに並べられた本の写真を撮って、そこに陳列された文庫に手を伸ばした女の子に取材の許可をもらっていた。

女の子は快諾した。19歳で浪人生だった。カズオ・イシグロの小説はこれまでにも読んだことがあるみたいで、どうやら短編みたいだった。その子は「わたしを離さないで」を手にとっている写真の被写体になった。

 

目次

  • ノーベル賞の報道のされかた
  • 何者でもないわたしたちという誰か
  • 母国語至上主義と翻訳

 

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「回遊人(吉村萬壱)」感想/死者の居場所

 

彼女の夫の居る時空と私が居るこの時空とは、何がどう違うのだろうか。私は一体、本当はどこにいるのか。確かな事は、女将の夫は既に死んだという事だ。その事を、彼自身も自覚しているらしい。しかし私は、自分が死んだのか、それとも単に元の世界から消えてしまったのか、何も分からない。彼女の夫は、自分が死んだ時点以降を死に続けている。しかし私は……。

吉村萬壱,「回遊人」

 

小説の歴史、というようなものをいうつもりはないのだけれど、19世紀後半から現在にかけて小説は常に「時間」というものとの関わり、小説のなかでの時間のあつかいはもとより時間のなかでの小説のありかたの正しさについての解答なき問いにさらされてきたように感じる。

ウェルズの「タイムマシン」やみんな大好き筒井康隆「時をかける少女」などSF世界を構築することで(あるいは無垢な想像の結晶として)表現されたり、ジョイスやプルースト、ウルフなどのモダニズム文学を代表する「意識の流れ」や、保坂和志や山下澄人らによって現代日本で行われている一人称と三人称を浮遊する「移人称」など、文章レベルでも「時間」は絶えず小説に影響を及ぼし続けてきた。

少なくとも、書くことでしか小説内の時間を動かすことのできない書き手たちにとって、時間との関わりは原理的な問題かもしれないけれど、時間の進行が書き手によって委ねられてしまっているからこそフィクションという特別な場所でしか感じたり考えたりできないことがリアリズムの問題として還元されうるんじゃないかとぼくはおもう。

時間が巻き戻り、戻れないあの日あの時をもう一度現実として目の前に現れるというシチュエーションにおかれたとしたなら、これから起こるべく未来はすべて過去化され些細な選択の違いをきっかけに「なかったこと」として損なわれていくのか、はたまたまったくことなる未知の世界に迷い込んでしまったのか。吉村萬壱の書き下ろし小説「回遊人」はその両方の可能性のなかを彷徨う物語だとぼくは感じた。

もちろんタイムリープの物語は小説に限らず、いまの時代では使われすぎているとさえ感じるけれど、吉村萬壱のこの小説の奇妙さは時間に関する様々な問題についての無関心が徹底されているところにある。

以下、小説「回遊人」の感想を書いてみたいとおもう。

 

目次 

  • あらすじとざっとした感想
  • 吉村萬壱という作家
  • 死者の居場所

 

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【翻訳短編】スコット・フィッツジェラルド「祝福」(原題:Benediction)

フィッツジェラルドの短編「Benediction」を翻訳しました。

今回は、Twitter上でお友だちから翻訳リクエストをいただいたのをきっかけに取り組んだ感じですが、なにか「これを訳して!」というのがあれば、お気軽にお問い合わせいただけると嬉しいです。モチベーションにもなるし!

ただ、著作権切れのものでないと公開できないのですが……!

 

ちなみに「Benediction」はこんな感じの短編です↓

 

「Benediction」はキリスト教での食事前の祈り・儀式のことで、「祝祷」あたりがタイトルの直訳になるかと思います。この小説にももちろん祝祷のシーンはかなり重要な局面で出てくるのですが、いろいろ考えて「祝福」をタイトル訳として採用しました。

 

英語で小説を読むのは慣れれば意外といけるので、興味がある方は試してみてください↓ 

www.waka-macha.com

 

ではでは、以下で翻訳を全文公開します。

 

目次

  • 「祝福」 スコット・フィッツジェラルド作

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