カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


小学生のころからカブトムシのかっこよさが一貫してわからない

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夏といえば虫とり、というのがちびっ子たちのあいだでは定番で、幼少期を瀬戸内海の島の山奥で育ったぼくとてやはりこの時期になるとよく虫をとった。先日、母親が近所のおばちゃんから「おいしい肉」をもらってそれをわざわざ神戸にあるうちまで持ってきてくれたのだけれど、どうやら親父の虫とりに付き合わされたという話をしていた。カブトムシやクワガタのいそうな木を田舎特有の第六感で察知すると、どうやら血が騒いでしまうらしいのだが、かれはもう還暦を過ぎている。

この時期になるといつもおもうことがある。それは、

「カブトムシ、ほんまにかっこいいか?」

という疑問だ。

別にカブトムシについてはなんの恨みもないし、はっきり言って無関心な事柄になるのだけれど、「虫とり」についてはそのおもしろさが理解できないまま幼少期に全身蚊に食われながら明け暮れていて、そのことに関する違和感をちょっと書いてみたいとおもう。

 

目次

  • 虫=かっこいい?
  • 価値観と政治的構造の骨格
  • 「カブトムシ愛好家に変える」ことが「教育」なのか?
  • とはいえ、じぶんでも無意識でやってしまっている感が否めない
  • まとめ

 

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英語で小説を読みたいひとが知っておくと便利なことをまとめてみたよ!

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ぼくは海外の小説がすきなのだけれど、しかし小説読者の大半はおそらく翻訳された小説に読みにくさをかんじている。すくなくとも、ぼくがこれまでに会って話をしたひとのほとんどが「洋モノは苦手」だといっていて、翻訳がよくないとかそんなことをいっていた。

 

しかし「英語の勉強」という建前があると翻訳と原文を見比べてがんばって読もう!という意思がどうやら芽生えるらしいのだけれど、英語の勉強を目的としてそれをやるのはいささか見当違いだというのは知っておいたほうがいいんじゃないかとおもう。

端的にいって、翻訳は英語力だけをとうものではないし、むしろこれまでの(文芸的な)読書そのものをとうている。基礎的な英語力を身につけるならばTOEICの練習をしていたほうが数倍効率がいい。

それについては「文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち(Next Creator Book)」に詳しく書かれているのでそちらを参照してもらいたい。

下線部和訳と翻訳は決定的にことなっている、というのが大前提だ。

そういう前提を置いた上で、英語学習以前にそもそも小説を外国語で読んでみたいという好奇心があるひとに向けて、以下書いてみたい。

 

目次

  • 「最初に読むべき本」は「読みたい本」に尽きる!
  • あえてオススメを挙げるならオーウェル !
  • 「Project Gutenberg」を利用して短編を読む!
  • 電子書籍はやっぱり便利!
  • まとめ

 

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【感想】大前粟生「のけものどもの(惑星と口笛ブックス)」/小説を読む瞬間にしか現れない物語

 

小説を読まなければ読めない小説がある、ということをよくかんがえる。小説は物質的な範疇でいってしまえば「単なる文字の配列」でしかないし、だからこそ言語さえ身につけてしまえばかんたんに読めてしまえるはずだ。しかし、事実としてとくていのひとにとって読了不可能な小説というものがある。さいしょの数行をよんでなにが書いてあるかわからないのは小説ではなにもとくべつなことじゃない、ということを受け入れる準備は、おそらく小説を読むことでしかおこなえないのではないか、と。

 

そういうことをつよくおもいおこさせる読書のひとつとして翻訳があげられる。翻訳家のひとと話したことがあるのだけれど、そのひとは、

「誤訳のない翻訳は不可能だとかんがえたほうがいい」

といっていた。このことばの射程距離が技術的な領域の内外のどこまでなのかはわからないけれど、そもそも、言語が離散的にしか意味できないという原理的な問題をはらんでいるのだろう。とびとびの意味のつらなりが文章であり、散文であり、物語であるならば、創意はその隙間にあらわれる。行間とかそういうもの以前に単語単位で、あたえられた環境のなかでぼくらがいかに知覚するか……このことばのはざまという環境において、おそらく作者と読者の区別はつかなくなる。その創意に自由や快楽をえるためには鍛錬が必要になる。

 

大前粟生を読むことは翻訳にとてもにている。

これは「大前という言語を理解可能なものに変換する」という行為を示すのではなく、むしろ提示されたテクストの変換不可能性についてだ。既存の日本文学とは感触がまるでちがう、その「日本のだれにも似ていない」がゆえにかんたんに読ませてくれないかれの処女短編集「のけものどもの(惑星と口笛ブックス)」について、特にそのなかでも出色の完成度におもわれた「生きものアレルギー」を題材に「小説の読みにくさ」について以下でかんがえてみたい。

 

目次

  • 小説という束縛 
  • 大前粟生がおこなう言語・認識運動
  • 運動神経と意味
  • まとめ的なやつ

 

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アイドルが「掟破り」の結婚宣言する前に「推しが武道館いってくれたら死ぬ」というマンガを読んでほしい件

 

朝目覚めたら、Twitterが魑魅魍魎阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

 

その事件とはいうまでもなく48グループの総選挙で、NMB48の須藤凛々花が結婚宣言をし、その相手もいるとスピーチでぶっちゃけた話だ。

Twitterの反応に、不覚にも笑ってしまった。

 

 

 

 

今回はこの事件から思わず想起したアイドルについての雑感と、ぜひ読んでもらいたいドルヲタマンガ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」について言及したいとおもいます。

このマンガ、アイドルにこそ読んでほしい。

 

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子どもが生まれてからオナヌーできない問題。

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とつぜんだけど、セッ久とオナヌーはちがう。

ぼくはそうおもっている。
日頃のストレスやらお酒飲んだときとかのやり場のない性欲は射精によって回収されるといえばそうなんだけど、射精すりゃいいってもんじゃない。仕事でも主にビジネスビジネスとぶひぶひいってる連中がよくいうじゃないですか、
 
「結果よりも過程が大事だ」
 
って。ぼくはすげーそうおもうんですよ、射精より、射精にいたるまでの経過が、射精の満足度をあげる。そして射精の満足度っていう座標軸はひとつじゃない。
たとえばラヴェルの名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」でも、ピアノ独奏とオーケストラだとぜんぜん違うし、どっちがいいとかそんなん比べられない。独奏には独奏の良さがあり、あの音楽を作るまでの表現的なプロセスも独奏ならではのものがなされ、オーケストラでもそれはしかり。
射精もおんなじ。
 
射精は表現なんだ。
 
目次
  • なにがちがうの?
  • 結婚してからはどうやってオナヌーしてたの?
  • 子どもがやってきてから
  • 平和的解決に向けて
  •  あわせてどうぞ!