カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


大江健三郎と村上春樹はなぜ同じ主題を「書き直し続ける」のか?/オブセッションと〝自己模倣〟

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イーヨーにとって、はじめて父親が死ぬということが、自分にもわかる問題になった、ということだったのじゃないか? 確かにイーヨーはきわめて悪かった、悪いふるまいをした、ということではあるんだけれども、と僕はしばらく考えた上で妻に話した。それでもわかりにくい部分はね、つまりイーヨーが、死んだ人間もまた帰ってくる、と考えているらしい点はね、これから注意して観察すれば、そういう考えがよってきたるところを納得できるだろうと思うよ。イーヨーは、単なる思いつきはいわないから。それに僕自身、子供の時分におなじように考えたことがあるように思うのさ。……ともかく僕が旅に出ていて、なかなか帰ってこないから、そこで僕が死んだ後へと、イーヨーの思いが行ったとして、自然なことなのじゃないか? 父親がどこか遠い所へいってしまい、かれの感情の経験としては死んだと同然で、その上ゲームとはいえ、母親まで自分を残して逃げだそうとすれば、イーヨーとして逆上もするよ。子供にとってとくに、ゲームは現実のモデルなんだから。かれの庖丁のかまえ方は、考えてみると防禦的なものだと思うけれども、そうやってカーテンの向こうを覗いていたのも、じつは父親の死後、かわりに家族を守ろうとして、外敵を見張っているつもりじゃなかったのか? 僕はどうもそう思うよ。

 

大江健三郎、「無垢の歌、経験の歌」(新しい人よ眼ざめよ)

 

「円熟をむかえた作家は往々にして自己模倣に走る」

なんてことをよく聞く。

 

若い時分に代表作となる作品を世に出して一定の評価を得ても、しかし作家はそこであつかった問題に執着し一向に新境地を見出さないという意味でこのことばは発せられるのだけれど、果たしてそれは読者として下すまっとうな評価なのか、ということはいつも疑問に思う。

これはぼく自身が実作をするひとだから感じる違和感なのかもしれないけれど、しかし小説をつくるという行為において、実作者が切実とみなしている問題はたった一作によりすべてが解決されるなどということは、おそらくありえない。

この「自己模倣」ということばで辛辣な見解がたびたび寄せられる作家の代表として、大江健三郎と村上春樹が挙げられる。大江は「個人的な体験」をはじめとする多くの作品で脳に障害を持って生まれてきた息子を軸にすえた小説を書き、村上は「井戸」というメタファーを作品をまたいで執拗に長編小説の根幹に置いている。

両者の特徴に共通点を見出すならば、どちらも「メタファー」を現実の問題として捉えている点にあるように思える。大江にとっての「雨の樹(レイン・ツリー)」「村=国家=小宇宙」「息子の見間違え」であり、村上にとっての「井戸」は、なぜこれほどに何度も書き直されねばならなかったのかという問題は、当然「書ききれなかったから」ということになるんじゃないか。すくなくともぼくはそう考えている。

今回は、主に大江健三郎の私小説的連作短篇「新しい人よ眼ざめよ」を中心に、主題の反復について考えてみたいとおもう。

 

 

目次

  • 「新しい人よ眼ざめよ」のあらすじ
  • メタファーとオブセッション、そして書き直し
  • よりよく現実を知るための「私小説」という技術
  • 「他者のことば」で考える

 

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電子書籍ってどうよ?Kindle Unlimitedで読めるオススメの小説・ノンフィクションを紹介しながら電子書籍市場の話をするよ!【随時更新】

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こんにちはこんばんはおはようございます。まちゃひこです。

今回は「Kindle Unlimited」を中心とした電子書籍のお話です。

 

電子書籍についての諸々の感想は後述したいと思うのだけれど、ぼく自身はここ1年ほどは電子書籍での購入を増やしている。

小説やノンフィクションだと、電子書籍と紙の本ではやっぱりまだ「紙の本の方が読みやすい」という感覚が拭えなくて、特に長編小説になってくるとまず読めない。

ただ、現実問題として「部屋を本が占める物理的割合」がいよいよ深刻になってきているので、できるだけ電子書籍に慣れた身体にしたいとは思ってはいる。

さてさて、電子書籍といえば業界で幅をきかせているのが「Kindle」だ。

2016年の夏に読み放題サービス「Kindle Unlimited」も始まり、市場規模も年々あげているとのことだけれど、実際の(まちゃひこの個人的な)使用感などを振り返り、書籍紹介などをぶらぶら経由しつつ電子書籍について考えてみたい。

 

目次

  • ぶっちゃけ電子書籍どうよ?
    • 電子書籍市場は快調に伸びている
    • 電子書籍のキーワードは「はやさ」!?
  • Kindle Unlimitedってどうよ?
  • インディーズレーベルについて
  • 光文社の古典新訳文庫シリーズがアツい!
  • 隠れた名著の発見!?

 

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だれも教えてくれない純文学とエンタメ小説(大衆文学)のちがいと、純文学が売れない理由についてあえて考えてみた。

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フリーランスで仕事をしていくにあたり「読書」を軸にしようと決めた以上、ぼくはじぶんの読書だけは信じ抜かなくちゃならなくて、それがもしできなくなってしまったならばなにもかもやめなくてはならない。そんなことをよくおもう。

ただその一方でじぶん自身の読書がいかに偏っているかも自覚しているわけで、とりわけ語りの技法や構造などの言語表現への関心が高いため、どうしても物語そのものへの関心が(ないというわけではないが)相対的に低くなってしまう。すると、

「お前の読書はつまんなそう」

ということをいわれることが、これまでに本当に何度もあった。ぼく自身、読書をめちゃくちゃたのしんでやっているつもりではあるし、小説に限っていえば、そもそもなぜ小説が書けてしまうのかという命題めいたものは、読書のたびにそれなりに具体的な姿を一瞬みせてくれる。

その感覚こそ書評であれ翻訳であれ実作であれ、ぼくが特に力を入れている活動を根底で支えているものなのだけれど、しかしこれがどうやら一般的でないとはじめて知ったときはおどろいた。みんな、こういうことを不思議におもうものだと、二十代半ばくらいまでわりと真剣に信じていた。

 

そういうこともあって、ぼくがこれまでに読んできた小説の、特に「実作しないひとの感想」というのは、できるだけ深く、そして数多く知りたいなとおもう。

実作をしない、ということの特別さを良い感じのことばでいうのは難しいのだけれど、「言語表現の実践を切実な問題と見做さない人(というと、悪意はないのにかなり響きが悪くなってしまう泣)」にとっての小説のありかたはやはり世界で圧倒的多数を占めるのは事実だとおもっているからで、そして、その事実がある場所といまじぶんがいる場所とがいったいどれくらい離れているか、常に客観的に知っておきたい。その距離によって、たぶんぼく自身の読書観も更新される気がするから。

 

つまるところ、多くのひとの関心は「わかりやすい物語」にある。

そして小説において技術的な新規性というのは、ほぼ求められていない。

たくさんのひとと小説の話をしてきて感じたのは、このことだった。

 

さて、ここで「ジャンル」の話をしたいとおもう。

日本において小説には大きくわけて「純文学」と「エンタメ小説(大衆文学)」のふたつがある、という話はなにかとよく出るのだけれど、しかしそれらの「内容的な」定義はほとんど聞かない。

そしてこれまでにけっこう多くの読書家のひとや作家や編集者のひとと話をしたりしてきたけれど、「この小説は文学だよね」「これはエンタメだよね」という話をすることはまずない。そもそもジャンル分けというものが便宜的なものでしかないということをみんなわかっているからなのかな、とおもった。

というか、純文学だのエンタメだの、そういう枠組みで小説を話すことはなんとなく業が深い気がするし、できれば避けたい話題だからみんな積極的に話すことはないのかな、ともおもう。

 

というわけで今回はかなり私見ではあるけれど、「純文学かエンタメか」というできれば話したくない内容について、いろんな角度から考えてみたいとおもう。

個人的に、あんまり好きじゃない話題だけれどもこういう話のニーズはありそうなので所感くらいは述べておこうかなとおもいたったものの、話にほとんど一般性がないことについては、あらかじめご了承ください。

 

目次

  • 出身の文学賞や雑誌で機械的にジャンル分けされる
  • ジャンル分けが必要な理由は「本を売るため」
  • 売れない純文学
    • 純文学は売れない!?
    • 質よりも「売り方」!?
    • 純文学が売りにくい理由
  • まとめ

 

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【書評】滝口悠生「高架線」/本当のことと語り手への信頼

 でもさ、と私は田村の話を遮った。僕の文通相手はね、本当は存在していないんですよ。いや、あの写真の男……男か、女か、何と言ったらいいかわかんない、僕は男と言ってしまうけれども、あの人はもちろんどこかに実在しているけど、僕が文通をしていた相手は北海道まで探しに行っても、どこにもいない。成瀬文香なんて人はね。いや、それはどうでもいいことで、いやどうでもはよくないけど、そんなことを言いたいんじゃなくて、僕は成瀬文香を、死んだ人のように思い出すことがあるんですよ。

滝口悠生「高架線」

 

 

詩情とは場である。

かつて詩人のオクタビオ・パスはそういったらしい。

らしい、といのは友だちから聞いて知ったからなのだけれども、この考え方には説得力があって、ぼく自身がそういうことを考えるうえでも軸になっている。

詩情が豊かだとか、詩的な文章だとか、そういう評価はおもに「いかにも文学な」文章になされるけれども実は必ずしもそうじゃなくて、ただの事実を事実として語るような文章や、そして「いかにも文学な」語彙や比喩が使われていない文章にさえ、すくなくともぼくは「詩情」なるものをかんじるときがある。

詩情に関して考えたりいざ論じようとしてもそれがなかなかうまくいかないのは、そもそも詩情が読み手の主観によってのみ感知されるものかもしれない。

「たしかに存在している、しかしそれが何かはよくわからない」

といった感覚について、厳密に定式化されるべきかあるいは曖昧なものとしてそのままにしておくべきかはさえ判別できないのだけれど、どうにかその中間となる「厳密かつ曖昧な」ものとして一般性が与えられれば、とはよく考える。こうした「語りの詩情」について考察するうえで現在欠くことのできない作家が滝口悠生だ。

今回は滝口悠生の初長篇となる作品「高架線」について感想を書いてみたいとおもう。

 

目次

  • 文学への過剰な期待
  • 日常系アニメが好きなひとは好きそうな長篇小説
  • 大きく分けて2つの物語をつなぐ「かたばみ荘」という詩情
  • 「ひとの気配」を継承する
  • ほかのひとの感想

 

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【お知らせ】惑星と口笛ブックスから短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

 

 

本日、前々からTwitterでお知らせしていたぼくの短編集「コロニアルタイム」が、作家・翻訳家・作曲家・編集者というさまざまな顔を持つ西崎憲氏が主宰するレーベル「惑星と口笛ブックス」よりKindleで発売されました。

 

 

 

収録作品は以下の4作でいずれも書き下ろしです。

  • 騎士たちの可能なすべての沈黙
  • ソナタ・ルナティカOp.69
  • 演算信仰
  • コロニアルタイム

短編としてそれぞれ別の小説ではあるのですが、4つでひとつの小説とも読むことができるかと思います。

チェスや数学、クラシック音楽、計算科学やおとぎ話など、様々なものを扱った小説たちです。「時への植民」をお楽しみいただければ……!

 

ちなみに同時発売で相川英輔さんの短編集「ハイキング」も発売されています。ぼくの短編集とは作風がかなり違うので、2作で様々な読書体験ができます!

 

 

ちなみに相川さんもぼくの小説を読んでくださっていてTwitterでコメントをしてくださっています。

 

 

よかったらぜひ、お読みいただければ幸いです。

感想なども気軽にブログ・Twitterで言及してくださると嬉しいです!

みなさま、よろしくお願いします。