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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

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近所のTSUTAYAが潰れたのでそれ以来dTVを使っているという話

近所のTSUTAYAが潰れたのはたぶん1年くらい前で、ぼくは毎月そのTSUTAYAでDVDを4枚、1000円でレンタルようにしていたのだけれど、それができなくなってしまった。

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レンタルビデオ店というのはむかしからすきで、地元では都会じゃきいたことのない名前のレンタルビデオ店が高校のちかくにぽつんとあるだけだった。いまおもえば特に品揃えがよかったわけでもなかったけれど、そもそも本屋でもそうなのだけれど棚を見るのがすきだったからかもしれない。まとめて借りれば安くなるというシステムはそのお店にはなくて、でも地元を離れてはじめて入ったTSUTAYAにはあったから、借りる予定のなかった映画まで借りられるのがうれしかった。毎週いった。

最寄りのTSUTAYAは結構ふるいフランスの映画とかもそろっていた。しかしそこが潰れてしまうと、いちばん近くのTSUTAYAは電車に乗って三ノ宮駅までいかないとない。三ノ宮のTSUTAYAは家の近くのTSUTAYAよりもずっと品揃えがよかったけれど、やっぱり遠いのはいやだった。電車に乗るのはやっぱりめんどうくさい。

 

そういうなか、たまたまiPhoneを買い替えるタイミングがやってきて、そのときに担当のおねえちゃんにdTVを薦められたのだった。

あきらかにその携帯販売会社で「dTVノルマ」的なものがあったのだろうな、という雰囲気は感じ取ったけれど、

「最初の31日は無料ですから。気に入らなければ無料期間内で解約してください。すぐできますし」

といわれた。そのときにふと家の近くのTSUTAYAが潰れたことを思いだして、月額500円だったらDVD4枚より安いし、しかも見れる作品数も多いからコスパ的に有利じゃん、とおもってdTVを使い始めた。それで今にいたるわけである。あと、dTVを契約すれば担当のおねぇちゃんとワンチャンあるかもしれなかった。おねぇちゃんの下の名前は小春ちゃんだった。ぼくは小春ちゃんの力になりたかった。

「dTV」ムゲン楽しい映像配信サービス

というわけで前置きが長くなったけれど、「dTV」について今日は紹介してみようとおもう。

ちなみに、ドコモじゃなくてもメアド(捨てアドで大丈夫)があればふつーに使えます

 

目次

  • コスパ良い。作品数多い。スマホで観れる。
  • dTVオリジナルの番組もあるし、地上波の縛りがない
  • 洋画はあんまり充実していない。
  •  「完璧なサービスなどといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

 

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幼児が胃腸風邪になったときの対処メモ/あると便利なものまとめ

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備忘録がてらのエントリー。

 

うぇい太郎(息子 1歳)が今シーズン二回目の「胃腸風邪」にかかった。

今日は病院が空いてなかったためお医者さんに診てもらうことができず、発熱はないためにたぶんノロウイルスではないとおもう。

明日、かかりつけのお医者さんにつれていくつもりだけれど、子どもが嘔吐を繰り返したときの対処法をまとめておく。

 

目次

  • 症状の進展とノロウイルスとのちがい
  • 「嘔吐~下痢フェーズ」の対処で気をつけるべきこと
  • あったら便利なもの
    • ナイロン製のまえかけ
    • 経口補水液
    • おねしょマット
  • まとめ

 

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現実への援用として、あるいはピグマリオンの彫刻としての私小説/山本浩貴+h「草のあいだから」(文鯨2号掲載)

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山本浩貴+hというちいさな小説家について、ここでぼくがかれをどう認識しているか、できるだけ正確に書いておきたい。

 

もっとも影響をうけた作家はだれかというありがちな質問に対し、ぼくは決まってトマス・ピンチョン、リチャード・パワーズ、そして山本浩貴+hの名前をあげるのだけど、すると(極めて不本意なのだけれど)決まって失笑されてしまう。山本はまだ大手文芸誌で作品を掲載されたこともないわかい、そしてアマチュアということになるこの作家だけれども、しかしその深い思考と内省、(年齢に対してずばぬけて)豊富な読書経験、そしてなによりもそれらを実作に還元する力に関して、はっきりいってしまえば既存の「プロ」の作家をはるかにうまわまっている、とぼくは確信している。かれ自身、ぼくがこういうことをこうしてひとの(そしてじぶん自身の)目に触れるところで堂々と書かれてしまうことは本意ではないだろうけれど、できるだけはやいうちにこれはいっておかなくてはならないとずっとおもっていた。

もちろん、かれ(ら)の作るものが、小説というものをもっとも切なるものだとは考えないひとたちが完読できうるものかという点で、正直まだ課題は山積しているとはおもう。そして書かれることばやエピソード、それらが結晶化することにより生まれる物語が、語り手の支配下にありすぎてしまっているというもどしさもある。ただ、そういうものはいま最良のものを書こうとするなかでいずれ自然と解決される問題であるのと同時に、実践としての文学としては究極的には副次的な問題でしかないだろう、とぼくはかんがえる。特定の一作によりそういった問題が解決されるより、作品の系譜を自身で作り上げることにより時間を経て解消されたほうがいいようにおもえてならない。

 

かれはクラウドファンディングで資金を募り発行されたという文芸誌「文鯨」に短編小説を寄稿している。

twitter.com


このエントリーではその小説について、ぼくがどのようなことをおもい、考えたかを書き、また「私小説」というもの一般のことを考えてみる。

 

目次

  • 短編「草のあいだから」の物語構造
  • 死生観をのりこえた場所
  • 「私小説」と「ガラテア」
    • 私小説という技法に関してもうすこしだけ。
  • あわせてどうぞ

 

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「この瞬間」の快楽/小説「ダロウェイ夫人(ヴァージニア・ウルフ)」感想

このエントリーはヴァージニア・ウルフによる小説「ダロウェイ夫人」の内容に関する言及があります。

 

村上春樹はかつて河合隼雄との対談で小説をひとつの家にたとえた。以前、京都大学で行われた河合隼雄文学賞の受賞記念講演の際、この話を村上春樹はしていた。

「小説という家には一階にひとびとが集うエントランスがあり、二階にはその家に住むひとたちプライベートな部屋がある。そして地下室には、普段ぜったいにだれかの目に触れられることのない、物語の残骸が多くしまいこまれている。小説というものをつくるだけであれば、この部屋というものは必ずしも必要ではないけれど、小説が優れた小説となるためには、この部屋の奥深くに足を踏み入れなければならない」

 

ヴァージニア・ウルフの代表作とされる「ダロウェイ夫人」を3日ほどかけて読み終わったのだけれども、読み終わって、本を閉じて、最初に頭に浮かんだのはこの村上春樹のことばだった。

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

 

 

この小説は第一次世界大戦が終わったあとのロンドンの、上流階級の婦人クラリッサ・ダロウェイある6月の1日を舞台にした小説であり、話の大筋は朝にクラリッサが花を買いに出かけ、自宅でおこなわれるパーティーが終わるその日の深夜までの平凡な生活が書かれている「だけ」だ。

ありきたりな話をすると、この小説の最大の特徴は三人称で書かれる物語のなかに、さまざまな登場人物の胸の内の独白や過去の記憶が「わたし」や「おれ」といった一人称で突然語られるといった表現形式にある。これはジョイスやプルーストといった同時代の作家たちも多用した「意識の流れ」という技法として、現在モダニズム文学を語るうえで極めて重要な叙述形式であると知られているもので、このような作家群だけでなく、近年の小説を読むにあたっても知っておいて損はない。

たとえばこのあいだ芥川賞を受賞した山下澄人の作品であったり、日本文壇で一大派閥となりつつある保坂和志たちの小説も、直接的ではないにしろ、こうした人称と認識を切実な問題ととらえた文体は、いわゆる「意識の流れ」が提起した語りのありかたのひとつの変形としてあるのだと読んでも悪くないとおもう。

しかし、こういった技法にとらわれ過ぎてしまうと往往にして小説の読みかたというのは粗くなってしまう。小説のなかで、物語のなかで、いったいなにが起こっているのかということに耳をすますことができないならば、小説を読むことにおいて技法の知識というのは害になってしまう。それは逆に、技法ありきでつくられ「過ぎて」しまった小説がつまらないという理由にも一致する。

 

以下、「ダロウェイ夫人」のレビューを書く。

 

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「私小説」という牢獄/第156回芥川賞「しんせかい(山下澄人)」 

※このエントリーは山下澄人による小説「しんせかい」の内容に関する言及があります。

 

しんせかい

しんせかい

 

 

きのうから立て続けに文学賞受賞作を読んだ。芥川賞についてはいつもは候補作をすべて読んでいるのだけれど、今回は時間が取れず、候補作は1作も読めていなかったからちょっと変な気分になった。

山下澄人の芥川賞受賞は、率直にいってうれしい。

山下澄人という作家が描く世界は、いつもあいまいでぼやけている。それは語り手である「わたし」が、「わたし」というじぶんであるという認識が希薄であるが故に、かれが語る世界さえも世界としての自覚をもたないからなのだろうとおもっていた。「わたし」は作中で簡単に「わたし」であることをやめてしまうし、語れば語るほど「わたし」は「わたし」から遠ざかり、過去や現在といった時間、ここでない場所が語り手にとってすべて等価な価値を持つようになる。

比喩がほとんど排除された簡潔と文章によって目の前に作り出される曖昧模糊とした認識世界は、見通しの悪さゆえのはるかな広がりを持っていて、極めて独特な読書体験へとぼくらを連れ出してくれる。

しかし、この書き方であるがための弊害というのももちろんあって、それは、すべての作品がおなじような印象を受けてしまうこと、そして語られる世界であり内容よりも文章技巧が議論され過ぎてしまうことだ。

しかし、受賞作「しんせかい」は従来のかれの作品とはまた違った感触があった。

きょうはそのことについて書いておこうとおもう。

 

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