カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

発売翌日の2017年5月29日現在Amazonランキング「日本文学」部門で第3位!

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


伏見つかさ「俺妹」→「エロマンガ先生」の発展がなぜ素晴らしいか真剣に考えてみた。

※このエントリーには伏見つかさによるライトノベル作品「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」「エロマンガ先生」の一部ネタバレを含みます。

お兄ちゃんのバカ!

変態!

ラノベ主人公〜!

でおなじみのエロマンガ先生がおもしろい。今期でぶっちぎりで好きなアニメはこれだ。

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今回は俺妹やエロマンガ先生を見ながら、ライトノベルについて前々からぼんやり考えていたことを漠然と書いてみたいとおもう。

 

ちなみにぼくは普段から小説を比較的読む方だと思うけれども、かなり偏った好みを自覚していて、基本的に好んで読むものといえば海外文学とライトノベルだ。

なぜそうなのかをちゃんと考えたことはないのだけれど、パッとおもいあたることといえば両者とも「ぼくの想像を超えたもの」である確率が他の小説に比べ高いからのような気がする。ぼくは「こいつ頭おかしいんじゃねぇか?」というようなありえない設定・出来事を大真面目に描き出す作風が好きで、また、作品を群として見たときに見える個性というものに強く惹かれる。

 

ライトノベルを読み始めたのはごくごく最近のことで、この分野において詳しくはないのだけれど(また、ライトノベルは良作と駄作の差がめちゃくちゃ激しい)、とりわけここ10年15年でえげつない進化を遂げたメディアだと思う。というか、Wikipediaにもあるように、そもそも「ライトノベル」というものの厳密な定義が不在だ。そのため作品そのものだけを抜き出して「ライトノベルか否か」の議論をすること自体に大した価値はなく、現状「ライトノベルレーベルからライトノベルとして売り出された作品」を「ライトノベル」と呼ぶしかない。いわゆる「純文学」と同様、商業的な便宜でしかない。

 

目次

  • キミが育てた「萌え」をオレの「萌え」と対戦させようぜ!
  • 力学的な関係性とクラスター
  • 「力関係」がもたらすもの
  • 「俺妹」→「エロマンガ先生」の進化

 

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平野啓一郎「マチネの終わりに」を120%楽しむために、演奏されていたギター曲を解説するよ!

平野啓一郎のベストセラー「マチネの終わりに」を読んだ。

この本はクラシックギタリストと女性ジャーナリストの「切ない恋愛」を題材としたものなのだけれど、「恋愛小説」と「音楽小説」はぼくにとっての「2大苦手小説」でもあるため、まず読み切れるかが不安だったが、読み切れた。

 

この小説について、やっぱり興味を持ったのは「クラシックギター」という題材だ。

ぼく自身この楽器をかれこれ15年弾いているだけに、やっぱりそれなりの思い入れみたいなものがある楽器で、実際にこのブログのタイトル「カプリスのかたちをしたアラベスク」は、フランシス・クレンジャンスによるギターの現代曲(Arabesque en forme de caprice op.99)からとってきている。

作品じたいについて思うことは山ほどあったのだけれど、ここでは取り上げられたギター曲について、ちょっとした解説をしてみたいと思う。

というのも、本作での選曲は非常にセンスがよく、ギター音楽を聞いてみたいという人にこそ聞いてもらいたい楽曲ばかりだった。音楽面で監修的なものをギタリストの福田進一がつとめたそうだけれど、さすがだと思った。

 

ちなみに、主人公のイメージはイケメンギタリストの大萩康司が強烈に想起された。

 

今回は、平野啓一郎「マチネの終わりに」で使用されたギター曲のうち、個人的に注釈を入れておきたいものを紹介する。

 

目次

 

アランフェス協奏曲(ホアキン・ロドリーゴ)

ギター協奏曲の代名詞的楽曲であり、ギタリストの憧れと言われる名曲。

とりわけ有名なのは第2楽章だが、「第3楽章があまり評価が高くない」みたいなことも本書では言及されている。ユーモラスなリズムの第3楽章もぼくは好きだけれど。

ちょっとした逸話を一つするならば、「アランフェス協奏曲」は20世紀ギター音楽の巨人アンドレス・セゴビアのために書かれたとよく勘違いされているが、実際にはサインス・デ・ラ・マーサに書かれた曲だ。

それについてセゴビアは

「なんで俺じゃないの?」

とロドリーゴに詰め寄ったらしく、その結果出来上がったのがこの曲と双璧をなすギター協奏曲「ある貴紳のための幻想曲」だと言われている。ギター界屈指のパワハラである。

 

「ギター協奏曲ニ長調」(マリオ・カステルヌーヴォ=テデスコ)

マドリードでのコンサートで主人公の蒔野がこの曲を演奏するも、スランプの予兆が見られる演奏をした。

20世紀ギターレパートリーにとって欠かせない作曲家の作品が多数この小説では登場するのだが、テデスコなくして今のギター音楽の充実はなかったと言っても過言ではない。

テデスコの専門は確かピアノだが、セゴビアの要請を受けてギター曲を複数作曲している。中でも独奏曲「悪魔の奇想曲(パガニーニ賛歌)」はギター屈指の名曲として広く知られている。

ギターは持ち運びしやすさと独奏中心のレパートリーから「手頃な楽器」 なのだけれども、何かと経費のかかる協奏曲をやる際はどうしても上述の「アランフェス協奏曲」など、ギター愛好家以外にもよく知られている楽曲でプログラムが組まれやすく、演奏機会は少なくないけれども決して多いとも言えない。

アランフェス協奏曲は「スペイン音楽」というカラーが強く、スペインらしさをギターのアイデンティティに同化させることで音楽的な価値を無二のものとしているのに比べ、テデスコのギター協奏曲は「室内楽」としてのカラーが強い。

ギターがクラシック音楽という歴史に組み込まれる上で、非常に重要な楽曲だと言えるだろう。

 

「カヴァティーナ組曲」「スクリャービンの主題による変奏曲」(アレクサンドル・タンスマン)

両者とも、ポーランドの作曲家アレクサンドル・タンスマンの名曲であり、難曲。

タンスマンもまたテデスコと同様にセゴビアの要請を受けてギター曲を複数作っている。

前者の「カヴァティーナ組曲」は、むかし関西のギター愛好家の集まりでリサイタルをやらせてもらった時に弾いた経験もあって、個人的にも思い入れがある。

 

カヴァティーナ組曲は、

  1. プレリュード
  2. サラバンド
  3. スケルツィーノ
  4. バルカローレ

の4楽章で構成されているのだけれど、セゴビアが 

「最後は明るく終わりたい!」

と言ったために、第5楽章の「ダンサ・ポンポーザ」が追加されたという逸話がある。ギター界屈指のパw(ry

後者の「スクリャービンの主題による変奏曲」は、本当に弾くのが困難な曲だ。ぼくは弾けなかったし、一生弾ける気がしない。だけれどもタンスマンの楽曲のなかでも1、2を争う名曲だと思う。美しい、という言葉は嫌いだけれども、そうとしか言えないレベルで美しい曲。

 

小説について言及すると、このタンスマンの2曲を若手ギタリストに弾かせ、主人公を奮起させたというエピソードはよくできている。

主人公自身も「若い頃によく弾いて、隅から隅まで楽譜を理解している」というように、タンスマンのこの2曲はコンクールで定番の楽曲になっている。

そしてタンスマンもまたテデスコ同様に、ギター曲というよりも「室内楽」的なカラーが強い作曲家であり、弾きこなすには技術だけでなく、音楽についての深い理解と解釈が求められる。そしてこの2曲は大曲だ。同じ作曲家の大曲2つをひとつのコンサートで行うということは、この若手ギタリストの強い意思を感じる。作曲家も、そして演奏家もともにポーランド人だったためかもしれない。

また、「マチネの終わりに」は言語とアイデンティティについても重要な問題として取り上げている。

作曲家タンスマンはポーランドに生まれながらフランスに移ってからは一切ポーランド語を使用しなかったと言われているのだけれど、これは女性主人公の洋子の境遇に似たものを感じる。

とりわけカヴァティーナ組曲の最初の4楽章を包むどことない寂しさは、この作品によく馴染む。

 

プレリュードとフーガ(ニキータ・コシュキン)

パリで主人公が行うリサイタルの演目のひとつ。

ニキータ・コシュキンといえば、特殊奏法を駆使しておもちゃの音マネをする曲「王子のおもちゃ」や、エドガー・アラン・ポーの短編小説「アッシャー家の崩壊」をモチーフにした「アッシャーワルツ」でギター界隈には有名。

この2曲のイメージが強いと、コシュキンの「プレリュードとフーガ」はかなり異色な印象を受ける。え、ふつーに綺麗ないい曲じゃん!的な。

音が減衰していく一方のギターという楽器は、音色の淡さに見られる水彩画のような色彩感、そして物理的に声部の歌い分けがしやすく音楽の立体的な仕上がりに個性がある。

「プレリュードとフーガ」はそれを存分に活かした曲だ。

 

大聖堂(オーガスティン・バリオス・マンゴレ)

ギター独奏曲のなかでも最重要とも言える曲。

主人公の得意曲とのことだけれど、やっぱり音楽に「華」があって、コンサート受けはめちゃくちゃ良い。ぼくも留学中にちょいちょいギターを弾いていて、研究室の同僚に「何か弾け」と言われたときにこの曲を弾いた。

小説のなかでも「セゴビアはバリオスを評価しなかった(が、大聖堂は評価した)」とあるように、この曲はバリオス自身の演奏と、セゴビアの弟子であり存命するギタリストのなかでも「神」と呼ばれるジョン・ウィリアムスによって広く知られることになった。

ちなみにバリオスはこの曲の楽譜を残さなかったため、今流通している楽譜はジョンが書き起こしたものが元になっているとかなんとか。

 

ガヴォット・ショーロ(エイトル・ヴィラ=ロボス)

女の子が弾けばかわいさアピールになり、男が弾けば女の子を口説ける「ガヴォット・ショーロ」。

ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスは「5つの南米民謡(ショーロ)」というギター向けの小品を残していて、そのなかのひとつ。

甘くて柔らかい「優しいだけの曲」に聞こえるかもしれないけれど、この曲に深みを与えているのは「痛み」だ。調を変えるたびに音楽の中に暗い陰が蓄積されていくが、この曲はそれを抱え、寄り添って弾かなければならない。主人公蒔野は洋子の自宅でイラクから亡命してきたジャリーラという女性の隣でこの曲を演奏する。(YouTubeに良い音源がない)

 

黒いデカメロン(レオ・ブローウェル)

主人公がスランプを乗り越えて行ったコンサートツアーで演奏した曲。

キューバの作曲家ブローウェルは現代ギター音楽にとって欠かせない重要人物で、西洋的な体系化された音楽と南米の土着的な音楽をギターという楽器を介して融合させた類稀なる作曲家だ。

デカメロンではあるものの、100楽章やるわけでなく3楽章で終わる。構成はこうだ。

1楽章:戦士のハープ

2楽章:だまの谷をぬける恋人たちの逃走

3楽章:恋する乙女のバラード

名前はかわいいが、割とえげつない曲だ。

デカメロンの頭についている「黒い」は、西洋のものを南米に移植するときに度々使われる接頭語で、映画「黒いオルフェ」はそのいい例かもしれない。ちなみに「黒いオルフェ」の音楽監修はジョビンだ。

黒いオルフェ

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また、キューバの作曲家のレパートリーは、ぼくが勝手に主人公のモデルだと思っているギタリスト大萩康司の得意とするレパートリーでもある。

復活という場においてブローウェルの代表曲を持ってきたことについて、ぼくとしては象徴的なものを感じずにはいられない。

 

大萩康司を聴こう!

マチネを読むなら大萩を聴こう! 

シエロ

シエロ

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ブルー

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ハバナ・ライヴ 2005(Concierto en La HABANA 2005)

ハバナ・ライヴ 2005(Concierto en La HABANA 2005)

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「サイコパス」を知ることの意味/【悪の教典】【コンビニ人間】に見る「社会」と「狂い」の軋り

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※映画「悪の教典」より 

 

高校生ぐらいのときから、心理学というもの全般に胡散臭いイメージを抱いている。

とは言っても、ぼくはこの学問分野を否定したいわけじゃなく、あくまで個人的に釈然としないことが多いという、それだけの印象から思っているにすぎない。素人目から見ての話だ。

じゃあなんでぼくが「心理学」についてそんなイメージを持っているのかといえば、この研究の大多数が「統計」により支えられているからだ。

今回はそんな話を以下でしていくよ!

 

目次

  • なんとなく”ふわっと”した学問「心理学」
  • ”ふわっと”が変わりつつある「心理学」
  • 「サイコパス」というベストセラー
  • 「サイコパス」は「天才」か
  • 「イケ○ハ○ト」や「暇な女子○生」がサイコパスかどうかを考えても無益
  • サイコパスを扱った小説
    • 「悪の教典」貴志祐介
    • 「コンビニ人間」 村田沙耶香

 

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恋愛サイコパスが読める恋愛マンガは不倫SF「あげくの果てのカノン」/恋愛をSFで語る意味について

久々に恋愛ものの小説やマンガを読みました。

 

今日のお話

  • 「恋愛サイコパス」なるもの
  • 「SF」と「純愛」の親和性について
  • 「最終兵器彼女」との類似
  • まとめ

 

「恋愛サイコパス」なるもの

先日、友だちと江國香織「神様のボート」の読書会をしていたとき、恋愛についての話になった。普段そんな話はしないけれど、江國香織なので仕方がない。

 

正直、「神様のボート」について、物語だけに関して言えば「こんなオカンおったら嫌やな」くらいしか感じなかった。この小説は母娘が交互に語るこの物語で、母親はむかし自分のもとを去っていった男(=娘の父親)を待ち続け、ふるい恋愛感情を変わらずに持ち続け、それこそを生きがいとする女の(あるいは恋の)狂気を描いている。

変わらない母に対して、娘は変わってゆく者という対照的な存在として配置されていて、それがあるからかろうじて読了はできた。小説は共感しなくても楽しめる読み方なんていくらでもあるのだけれど、そもそも恋愛に興味のないぼくにとって、そういう話を長々と聞かされるのはそれなりに苦痛で、そもそも子どもに自分らの情交の話を美しいものとして語る母親の姿は、狂気と言うよりもバカにしか見えない。そんなことを思った。

 

ぼくは、「二十代中盤にもなって恋愛に一喜一憂できる神経が理解できない」というようなことをいうと、ちょっとそれはどうなの、ということを言われた。

「かわいい女の子と一緒にお話したり、どこかにデートに行ったり、プレゼントしたりしたくないの?」

と聞かれ、

「一切ない。そういう面倒臭いプロセスをぜんぶすっ飛ばして情交へと即座に移りたい。やむを得ない場合は金銭のやりとりも考慮している」

と答えたとき、「恋愛サイコパス」という言葉が生まれた。

この言葉の厳密な定義はなされなかったのだけれども、だいたい「恋愛において共感性が乏しく、性欲の最短経路を行くことを合理的と信じて疑わない姿勢」を指すようだった。昔のえらい人が「恋愛とは性欲の詩的表現だ」などといったものだけれど、たしかにぼくの中にそんなものは存在しない。性欲が恋愛を迂回しない。ある意味誰よりもピュアだと思うのだけれど、賛同は得られなかった。 

学歴を使って、マッチングアプリで某ドカタと優勝したいと思った。

 

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ベビーカー付き東京観光はほぼ不可能/ひとりで「バベルの塔展(ボイマンス美術館所蔵)」の感想。

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ゴールデンウィークということで、家族(嫁・息子・義母・義叔母)で東京に来た。メインの目的はこの四月から東京へ引っ越してきた義妹夫婦のおうち訪問なのだけれど、一泊して嫁と息子と義母と義叔母は関西へ帰り、ぼくは明日と明後日にちょっとした用事があって、それからしあさっての文学フリマにちょっと顔を出して帰る予定。そのあいだ、息子を嫁と義母にまかせっきりになるのだけれど、ふだんずっと相手をしているぶん、半年に一回か、季節に一回くらいこういう日があると非常にたすかる。世の中の専業主婦(夫)のフレンズはきっとそんなことをおもっているんじゃないかな。家庭をかえりみることなくいわゆる「モーレツ」に仕事にいそしんでいるひとたちはたまにはこういう意見を聞いておいてもバチはあたらないだろうし、ぼくらだってたまにはこんなことをいってもバチはあたらないはずだ。

 

しかしながら、今週にはいってからというもの、どうも調子が悪い。

先週あたりから息子が風邪とはいえない程度の軽い咳や鼻水が目立つようになってきたとおもったら、それに似たような症状がじぶんにもあらわれたとおもったら微熱が出た。37度。それ以上あがることはないものの、その微熱がただただ終わる気配もなく続いていて、全体的にけだるく、鼻づまりによって睡眠が浅くなり体調はすこぶる悪い。今日も朝から浅草観光と洒落込む予定だったのだけれど、ぼくは体調がかなり悪く、午後から上野で合流することになった。動物園に行くのだ。いま住んでいる神戸の家は王子動物園から近いのだけれど、まだ息子を連れて行ったことはない。しかしなんとなく、子どもといえば動物園であり、ぼくとしてもなぜか妙に息子を動物園に連れていきたいモチベーションが高いときた。

家族とは13時にJR上野駅の公園口を出てすぐのところで待ち合わせることにした。しかし時間になっても一向にあらわれない。嫁氏にLINEを送れば「まだ浅草」。どうやら地下鉄を乗ろうにも人が込みすぎて身動きが取れないうえに、エレベーターが見つからず地下に降りれずさまよっているとのことだった。

結局、嫁氏たちはJR上野駅公園口までたどり着けなかった。地下鉄の上野駅からJR上野駅まで何とかたどり着いたものの、公園口にいくためのエレベーターを見つけるには疲れすぎてしまっていた。息子も空腹でギャン泣き。中央改札まで迎えにいって(ぼくも待っている間にまた体調を悪くした)、落ち合ったころにはもう14時、新幹線の時間が16時30分だから動物園をあきらめて昼食をとり、別れた。息子はおなかいっぱいになるとごきげんになった。

東京はベビーカーや車いすのひとにやさしくなさすぎるんじゃないか、とみんな口々にいっていた。疲れ切った声だった。エレベーター縛りにすると東京に限らず、どこの都会でも移動難易度は爆上がりするかもしれなかった。それでも東京が特別なのは、ひとえになんでもない段差と、出口の多さにあるとおもう。

 

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