カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

発売翌日の2017年5月29日現在Amazonランキング「日本文学」部門で第3位!

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


ギターのための水彩画、などなど最近の生き様などを象の目でも焼きながら、

 日本から持ってこれる荷物が限られていたのだったから、持ってきたくても持ってこれなかった本はたくさんあったし、そのなかには想定外のものもあってそれは楽譜だった。当初はギターをこっちで弾く気なんて全然なかったし、そもそもギターはここ一年まともに弾いてなかったのだったから、もう手のやり場に困ることはないだろうと確信していたのだったけれども、弾きたくなるのはいつも突然で、ひとたびそうなってしまえば手は宙を遊びふらめくのだから困った。楽譜は紙媒体として一枚も持ち合わせていなかったのだけれども、PCのなかをのぞけば、「楽譜」というフォルダにあまりにも多すぎる紙の楽譜をなくしてもなんとかなるようにデータとして保存しておいた(違法ダウンロードでは決してありません)楽譜たちがしっかり持ち込まれていたのだったからうれしかった。ただそれは決して多いものじゃなかったのだからぼくはアマゾンを徘徊するし、家に帰ればハウスメイトの女の子があんたに何か届いたと言えば新しく買った楽譜で、それは一週間後のことだった。

 

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ギターのための「水彩画」 S.アサド

 世界を代表するギタリストの一人、D.ラッセルへ送られた曲だったはず。youtubeではラッセルの演奏を見つけられなかったけど(ラッセルのCDを持ってるのでそんなに探してない)、ヴィアゾフスキーが弾いていて、そもそも彼はすごく難しい曲ばかり弾く印象があったから、そもそもが難しい曲なのになおさら難しくきこえてしまったのだけど、第二楽章、そう第二楽章を無性に弾きたくなって買うがまだ眺めただけ。

 

 今日は今日とて平日にあまり成果が上がらなかったのもあって学校で研究をちょろちょろやっていたのだけど、やっぱり休日だものという中途半端な気持ちを中途半端に引きずったものだったのだから(だからお前は仕事ができないのだ!)、学校の、目の前にある広い広い公園の木陰かどこかを探してギターでも弾けたらと思ってギターを持っていったのだけど、案の定、仕事を始めれば仕事ばかりになってしまってギターを持ってきたことを半ば忘れたころにやってきたインド人の同僚が「machahiko,そいつを弾いて見せておくれよ!そういう約束だっただろ?」といえば(正直この展開はギターを持って家を出た段階で予想してたし、彼との約束も覚えていた)、彼はラボにいる数人を呼ぶと(休日にラボにいるのは決まってアジア人だ)、ラボの部屋のなかでも全然、だれにも迷惑がかからないし、ここで弾けばいいと促す。

 

 弾いたのはバッハのリュート組曲三番のガボットⅠ・Ⅱ、バリオスの大聖堂の第三楽章、イルマルのバーデン・ジャズ組曲のシンプリシタスだったのだけど、当然満足に練習なんてしていないのだから音楽っぽい完成度は全然ないわけで、というか人前でたとえフランクな雰囲気といえどもややかしこまった感じで弾くのは久々で、久々すぎて指なんて回らないのだったから、ところどころ自嘲してくすっと笑ったりそういった、言い訳の照れを全面的に出しながらの演奏だったけれども、みんなすごくよろこんでくれてうれしかった。それは、自分たちの演奏しろと言った建前だとか、そういう性悪な邪推が正しいのかもしれないけど、そうは思わないのが健康的だと思し、彼らはこれこそ建前かもしれないのだけど「また」を期待してくれていると言った。だから次はちゃんと音楽っぽく仕上げたいし、なにより彼らの好だといったジブリ(とりわけラピュタの「君をのせて」)など、聞かせてあげられたらなぁとか思う。

 

 クラシックギターを弾いていて、たとえば演奏会などすればクラシックギターを知らないひとはほとんどみんなバッハや20世紀レパートリーを期待しないのはかなりの事実だっていうことをこれまで何度も経験したのだけど、そして舞台にたつ人間の「聴いてもらいたい音楽」はそれと大きくことなることが多くて、その差異によるディスコミュニケーションは間違いなく舞台に立つ側に襲いかかる。

 そのディスコミュニケーションの解消法のひとつは、すごく簡単ですごく単純なものが聴衆の期待されている音楽へ「折れる」ことなのだけど、それは表面的な解決にしかならないし、できるだけそういったことはしたくないって思うのは、クラシックギターであればクラシックギターにどっぷりと浸かったひとから順に強い。音楽でも絵でも文学でもなんでも、それなりの次元で楽しもうと思うのならば結構な教養が必要なのは避けがたい事実だと思う。

 たまに「そういうのを全部とっぱらって感覚だけで楽しめればそれがすべて」という人がいるのだけど、ぼくはそれを断じて認めない人間で、このことはぼくはすごく頭が固いしあまりよくないことだとは自覚しているのだけど、そのフィールドでさまざまに活躍し開拓してきたひとの文脈であり歴史であるものの拒絶だっていうのがぼくのなかで強く強く、取り除くのはもはや不可能なくらいあって、「感じ方の自由」を説くひとのほとんどに「それは自由でなく孤独だ!」と叫んでやりたかったのは、まさにぼくがギターをすごく一生懸命やってたころのことだった(ぼくは「画一的な解釈」なるものを促しているのではない)。そんなことをふと思い出す。

 

 緞帳を隔てての「こちら側」と「あちら側」のディスコミュニケーションを考えるうえで、やっぱり「こちら側」の人間はかつて「あちら側」だったということを思い出すのがいいと思うし、同時に、「あちら側」の人間は「こちら側」にくるかもしれない人間だって可能性を想定するのがいいのかもしれない。もちろん、「あちら側」のみんながみんな、舞台に立つ人間になるわけじゃないのだけれども、それでも、「こちら側」のすることは、たとえばギターならギターの文化に触れたひとの、触れるひとの世界を押し広げるなにかになりうると思う。そして「こちら側」の人間が「あちら側」だったころに感動したものってなんだったのかを思い出せばそれを示すことが大切だって思んじゃないかって。

 文脈。

 歴史。

きっと「こちら側」の人間は現在進行形の興味で考えてしまうことがあるのだから、その文脈や歴史の見えないあれやこれは、彼彼女以外についていけないという状態に陥ってしまうんじゃないか。歩き疲れれば入口の場所を忘れてしまう。

 

 

 

 すべてはぼくから出てきた問題で、ぼくに返ってくる問題だ。

 ただ文脈や歴史はその分野・世界すべてを網羅しなければならない、というわけではなくて、スパンよりも連続であることがなにより大切だと思う。

 

 感覚というものをひとつ定義するのならば、思考と体験の可逆的なフィードバックの強度なんじゃないかって思う。だからこそ、連続的でなくちゃ、そこで演じられてるものを感じることができない。

 

 多くの「作品」に見られるひとの感性は、感情論の一般論(「どうしようもない感情の露出」「やりたいことをやりたいようにやる」とか)や「天才」っていうことばによる先天性への憧れで説明するのは簡単だけど、それはそこに潜む文脈に対して盲目になる危険性をはらんでいる。

 

どれくらい首を折り曲げたらそれは「うつむく」ということになるのかを、ただぼんやりと、考えるというほどのあれでもなく、指が草をぷっと吸って捨てるように思えば、気まぐれならば美しさもあるものの、ぼんやりと、人は、生まれて、生きて、そして死んでゆく、それだけではなんでいったい駄目なんでしょうか。それだけでは、なぜこんなにも色んな場面が苦しいのでしょうか。私はぼそぼそとうつむいて歩きます。歩くことは始終、私の問題なのに、まるで簡単に足は動いているので、足は偉いなあ。ねぇ、足。黙って、動いています。際限なく歩くことができるとすればいつかはどこかに到着することもあるでしょうが「たとえかかとが死にやがっても」。そんなになるまで歩いたこともないのに、私は思うのです。

川上未映子 『象の目を焼いても焼いても』

 

 思考っていう体験、体験っていう思考。

  緞帳の上がる前によくよく考えて。

 

 などなど、取り留めもなく。