カプリスのかたちをしたアラベスク

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感想文:空が分裂する(最果タヒ)

 

空が分裂する

空が分裂する

 

 

 

同い年、ということに最近は過剰に反応してしまう。

非公表らしいので本当かどうかわからないのだけど、彼女はどうやらぼくと同い年で同じ大学だったらしく、いつだったか詩が好きなひとと飲んでいたときに「○学部の子が、さいきんなんか中也賞をとったらしいねー」みたいなことを聞いてぼくは初めて知った。また全然場所も時間も違うとき、まったく別のひとからは、「○○図書館にいたあの子は、最果さんだったと思う!」と、なぜそう判断できたのかぼくには到底わからないけど、そういう話を聞いた。たぶん、なんどかすれ違っていたのかもしれない。

 

それは置いといて、このひとの詩は好きで、現代詩フォーラムで読んでたりしてたし、前作の「グッドモーニング」も持ってるし楽しく読んだ。

 

一言でどんな感じかいうと、手持ちの言葉では「中二病」っていう風になってしまう。なんだか、読んでて体がむずむずしくるのは、文面から溢れんばかりのひねくれた少女っぽい雰囲気や、恥ずかしいくらいにベタであろうことをドーンと言ってしまえる無鉄砲さ、なんというか、ことばそのものが彼女のまえではパステルカラーの積み木みたいな、そんな無邪気さだと思う。その、おもちゃを使って、彼女はなにかに対してすごく戦ってる感じが以前からすごいあって、はたして何と戦っているのかってずっと引っかかってたのだけれども、この「空が分裂する」のあとがきを読めてすとんと落ちた。以下、引用:

 

 常に思っていたことがある。

 わかりあうことは、気持ちが悪い。常に、本当に常に、思っていた。青春時代にみんなで、ナルシストとか、イタイとか、不思議ちゃんとか、中二病とか、言い合って、個性的にならないように毎日牽制しあっている、そういうのを見て、ああ、こうやって、平凡な人間は量産されていくのかと考えたりもしていた。みんなと違う、自分だけの特徴を、恥ずかしいものとして隠していくことが彼らの処世術で、平均的でみんなと同じ人が偉いんだと当たり前に考えていて。ばかみたいだ。それは偉くなったんじゃなくて、「無」になっただけだ。(中略)私は、感情がなんでもすばらしいなんて言わないけど、感情が美しく見えるのは「だれにもわからない」時だと思う。感情はただの乱れでしかないけど、その人のそのときにしか生じなかった乱れは、さざなみみたいにきれいだ。

 

最果タヒ,「空が分裂する」あとがきより

 

 

 極論を言えば、「あなたがわたしの言語で記された感情のサインを完全に読み取って共感しちゃえば、あなたなんかはこの世で必要じゃないんだ」ということになるのだろうか、ということをこの文章を読んだぼくは思った。ほんとうは誰にもわかりえない感情や思考を、ことばでもって記したそのとき、それが伝わってしまったら、理解されてしまったら、わたしはもはやわたしじゃなくてあなたかもしれない、わたしは「わたし」という個じゃなくて「みんな」っていう全体があればそのなかの区別できないひとつの分子でいいんじゃないか、とか、わたしがわたしとしていられる聖域を個人的に所有しておきたい願望を「中二病」と名付けるならば、世界は中二病患者の数の人種でわけることができるかもしれないけど、同じ種族じゃないひとの距離は隣の銀河よりもっと遠いところに存在するようになるのかはたして。ことばで描写された世界は、ことばの潜在的に持った構造を否応なく引き継ぐから、たとえば「共感すること」と「わかり得ないこと」の二項対立は自然と立ち上がり、でもそうじゃない「なにか」を書こうとしたときにひとは(少なくともぼくは)自己矛盾を犯す。そしてその自己矛盾を受け入れられない論理主義者は、その自己矛盾をあざ笑い、その嘲笑に晒されてひとはどんどん寡黙になって、やがて表現することを忘れてしまう。

 だけどその自己矛盾は、発した者にとっての「正しい言語」だったはずだ。たとえばいま僕が書いているこの文章は「共感することへの嫌悪」へ「共感した」ということを書いている。それは言葉の論理に従って捕えると正しくないけど、僕の感覚としては圧倒的に正しい。自分の感覚と、ことばの持つ構造的な問題とに生じる軋りへ抗うひとつの行為として、ぼくは言語を解体することにあると思うし、それが「詩」ってやつじゃないかと思った。というかそれをここ二年ぐらい考えていた。言語の構造的な問題を解決するためには、言語構造を自分の正しいものに作り変えることが必要だと。

 最果さんの詩からずっと感じてた「戦うべきなにものかの存在」は言語の潜在的な構造そのものなんじゃないかなぁとおもう。というか、それなくして詩は詩としていられない気もする。