カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


春樹の講演の覚書き

 

最前列の真ん中だった。

以下、ぼくのツイッターより。

 

 

しかして「あらゆるミクロコスモスを語る場としての三人称の獲得」をねじまき鳥クロニクル(三人称へむかう一人称)をへて海辺のカフカ1Q84 へと発展してきたと言っていたが彼の理想とする19世紀小説で行われた語りのあり方を超える一人称をねじまき鳥で獲得してしまったようにしか思えない。あの小説の、あの壮絶な一人称はどうしてもガルシア=マルケスの族長の秋を思い浮かべいたところがあったけれど、ほんの少しだけマルケスへの言及がねじまき鳥クロニクルの話をしているときに出てきて、体の芯から震えた。もっともっと聞きたかった。ねじまき鳥クロニクルで示した一人称のあり方をなんでもっと徹底せずに「安易な」三人称へ移行したのだろうと、ずっと不思議に思っていたけど、そらは単に彼がそこに小説を求めなかっただけに過ぎず、物語がなによりも大切で、それ以外の部分での難解さを可能な限り除外したかったからだと思った。結局、村上春樹にとっての一人称は、一個人に始まる世界の探索であり、その到達点としてのねじまき鳥だった。それ以降は段階をへて世界から一個人へ向かおうとしている。そして1Q84や多崎つくるで、三人称への移行を完了させた。そういっているのだと思った。

でも同時に僕はもう春樹作品を心から楽しんで読めないんだろうなっていう確信があって悲しかった。でもこれはそうなるべくしてなったんだと思ったし、だから書く余地がたくさんあるってい可能性だけ残った。多崎つくるを読み終えたとき、もう完全に違うなってなったけど、でも次にぼくの想像をはるかに超える三人称小説を書いてしまう可能性も十分あって、それにほんとに期待している感じ。

 

春樹講演会ネタはまだまだあるけど、なかなかうまくまとめられなくて、手元のメモでだいたい思い出せるから書くのをなかば諦めている。

 

一番重要だと思っていて、いままで考えていたことを確信できたひとことは、

「壁を抜けたのは比喩じゃない。現実です」