カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


世界を奪うこと――文藝賞「世界泥棒」

 今日は火災警報器の点検などがあるからできれば家にいてほしい、と妻はいって仕事にいき、昨日の夜の時点でぼくらは台風がつよい雨風と一緒にやってきて、できれば昼まで外に出られない一日がよかった。朝起きると晴れていた。雲の浮かび方がきれいで、輪郭がはっきりする白さと、それと空の青さだった。もうすぐ書き終わる小説のことをたくさん考えていたら火災警報器のひとがドアのベルを鳴らした。こういう訪問をしてくるのにはありふれた年代のおじさんだった。五分ぐらいで作業確認のサインをすることになって、そのまま帰っていった。まだまだ午前中だった。

 

 ここのところ新人文学賞の受賞作を立て続けによんだ。新人賞の小説は出たら太宰賞以外はほとんど読んでいるけれども、じっさいにつたないながらも書いているぼくにとって、そんなぼくとぼくでないひとの距離を露骨に測るような読書は、はっきりいって楽しいものではないし、かりに受賞作がおもしろくなかったとき、怒っているふりをしながら内心どことなく安心しているようなアレがとても嫌いで、じぶんの心の安定のためにだれかぼくでないひとを低く、意図的に低く見ようとする、下卑たじぶんが明らかになってしまう。

 

 文藝の「世界泥棒」を読んだ。おとといの行き帰りの電車と、夜の眠る前の時間を使った。ものすごくへんなことをいうと、きっとぼくだけじゃないだろうけど、ぼくが書いたみたいな感触があって驚いた。もちろん、設定とか物語とか、そういうものは全然ちがうのだけれども、次の一文を見出すまでの思考過程が、ひょっとしたら似ているんじゃないかと思った。というか、それはほとんど生活のなかの思考と変わらない。特に、作者に強いこだわりがあると思われる喜怒哀楽の直接的な、わるくいえば短絡的といわれるような、「うれしかった」「かなしかった」などの絶対的なことばの多用には、触覚として、ぼくが書くのに近い印象があった。ぼくが書くように読む、という意味で。こういったことばはよくもわるくも文章の所有者の存在を強めるようにずっと感じていて、小説世界でもっとも不確かで、しかし世界の重要な一端をになってしまった存在を暴くために、ここ一年くらいぼくはこういうことばを積極的に使っていくことを考えていた。語り手の存在を構築することで、さらに漠とした世界そのものへの記述へと必然性をもっていたれる……そういう確信があった。「世界泥棒」の語り手は「わたし」だった。「わたし」は、物語の最初からいろんなものを見たり聞いたりした。決闘の話を聞き、幽霊を見て、街を見て、国境をこえて、帰ってきて、引きこもったり、学校の決闘にいったりした。「わたし」の生活のなかで生きているひとたちが、たくさんしゃべって、話者たちは「」のない、息の長い語りで、そのまま小説を「わたし」から奪って、そして「かなしい」「うつくしい」など、主観の強いことばで、世界を思い思いに奪っていった。生きたひとはみんな世界を泥棒のように「わたし」から奪っていき、それは世界をじぶんの手におさめることが生きることであるかのような、しかし奪う手はどことなく躊躇いがちで、その迷いも含めてすべてを書いていた。その世界をめぐる闘争を目の当たりにして、ぼくは読んでよかったと心から思った。だれもが絶体絶命のなかで生きながら、どうにか絞り出したことばで、ぼくはそういうことばだけで小説を書くということが、それも380枚を超えるものだったら、いったいどれくらいの時間と気力を使ったのだろう?と不思議で、選評にあったような雑で粗い文章だとはちっとも思わない。いったいだれがじぶんでないひとの絶体絶命を雑だとかいえるのか! 憤りすらあった。小説的な技巧をこえた、途方もない小説だったと思う。おすすめ。