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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

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悪であること、書くということ

 応募を済ませてしまえば心が楽になるかと思ったらそれはぜんぜんなくて、いまもそうだけど、考えてもしかたのないことをぼくの頭は考えていて、じぶんのかいた小説を読みながら何度もじぶんの小説を離れた部分でのだめさにかなしくなった。研究のことを考えたかったけど、無理だった。何人かの友だちに

「読んでください」

 といいながら、ぼくはこのひとたちを心のどこかでじぶんの心を安定させるために利用しているのではないかと思って死にたくなった。死にたくなるくらいなら小説を書かない人生を選ぶのが正しいはずで、それでも次の小説を考えているぼくが、ほんとうに悪いやつだと思った。むかしから、小説を書くひとが気持ち悪いと思っていたことをいまも思いながら、そういうひとを絶対的な悪と見なして、嫌悪し、いまはそれがしぶんでなのだと強く思う。小説を書いて生きていこうとおもうってことを何人かのひとに話したら、いつも世の中そんなに甘くないよ、といわれるけれど、たとえばそんなリアクションこそぼくの思っている小説を書くことの悪がかたちになったひとつだと思う。だけど、それはかたちのひとつであり、悪そのものではない。その悪そのものをずっと考えていて、現実の世界に心と体をおいて生きながら、そこで出会ったり考えたりしたひとやひとでないものを、ちがう位相の世界に落としこむ行為そのもので、その位相のちがう世界でひとを蔑んだり、嫌悪したり、殺したり、かなしませたりすることに、現実でないからという言い訳でためらいを消してしまうことにあるのかもしれない。それだけじゃない。たとえ位相のちがう世界のひとやひとでないものたちが、かなしくないたのしい時間を過ごしてしたとしても、それを書く、ぼく、という存在はきっと悪であるだろう。この世界に存在しないひとやひとでないものをしあわせにしたところで、ぼくの生活のなかでぼくを思ってくれる妻や友だちに対し、できるはずだったすべてのかたちのある喜ばれるべきことを、ぼくは間違いなく放棄している。返すべきメールを返さなかったり、すべき会話を無言で返したり、そういうことを繰り返している。しかし、ほんとうにやさしいひとなら、たとえ小説を書いていてもそれらはできるはずだから、きっとこれらは小説を書くことのもつ悪ではなく、ぼくの、個人的な悪だろう。書くことによって、ぼくは苦しんだことしかない。だから「小説を書く=悪」という構図は、単にぼくのだめなところを、ぼくでない部分のせいにしたいだけだとも思える。しかし、書く、という行為が、そのだめさに密接な関係を、すくなくともぼくはもってしまっている。ほんとうの悪がなになのか、ぼくにはわからない。

 ぼくは小説を書く事で、ぜったいに努力だけはしたくない。前々からいう、

「小説を書くことは、きっとむずかしいことじゃない」

 ということは、小説というものは努力して書くものじゃない、というふうに思っているからで、小説を書く努力をしたぼくの小説というものがこの先あらわれたなら、きっとそれはまったく読む価値のないものだろう。

 今回の小説を書いているとき、ぼくの、書く、という行為への嫌悪や、ぼくでないひとの、書く、という行為への嫌悪が、臨界点を超えてしまったことがあった。とくに、その怒りの矛先を、小説を書く、という行為をとても楽しんでいるひとたちに向けてしまい、ずいぶんTwitterでひどいことを書いてしまった。お前たちはどうしてもっと考えないのか!と、えらそうなことを考えた。たぶんそれは嫉妬だった。ぼくはきっと、かれらのように疑いないしあわせのなかで小説を書き、生活をしたかった。ぼくはぼくでないひとを所有することを、心の底から願っていた。ぼくはしかなしいと思いながら、ほんとうはほんとうの悲劇とよばれるものを知らず、大切なひとをおじいちゃん以外に失ったことを知らず、ぼくの父や母、友だちの経験したかなしいことを、じぶんのかなしさとして所有したかっただけだと、友だちのかなしみの告白のなかで思った。ぼくはそのかなしみをじぶんのかなしみとしてかなしみ、涙を流したけれども、そうしているじぶんが道徳的な在り方をしていると満足したかっただけかもしれない可能性を否定できなかった。かなしみをかなしみとして受け止めることができる心を、単に嫉妬しただけかもしれないじぶんが、とてもおそろしく思えて、何度か嘔吐した。体重は下がった。そのかなしみを小説に書こうとした。じぶんでないものをじぶんのものとして所有しようとするあさましさもまた、悪、のひとつの在り方なのだろう。そして、書く、という行為はそのあさましさを、おそろしいまでに顕在化してしまう。書く、ということにぼくは何を求めているのかわからない。おそらくそれしかできないからしているだけの話なのだろうけれども、じぶんのなかの、悪、という認識なしで書くことはできないと思う。書く、という行為でぼくはなにも変わることはできない、それは自明のことだ。救い、というものはありえない。しかし、まわりの大切なひとたちを「利用」してまで、ぼくはなにをしたいのか、そう考えることがほんとうにおそろしい。しかしその恐怖なくし、きっと小説は書けない。悪と恐怖、書くという行為が、鶏と卵の関係をつくり、そのなかをひたすら輪廻転生することしかできず、もしかしたら輪廻転生することじたいを目的としているのかもしれない。死、ということばを持ち出すにはおおげさだけれども、死にたくなるほどのしあわせのただなかに、すくなくとも書いている時間のぼくはいるのだと思う。次の小説のことを考える、ということは、ぼくでないひとにとって許されない行為なのかもしれない。書くということでは、いちばん大切なひとさえ、しあわせにできない。徹底的に無意味な営みを軸にして生きたいと、どうしてぼくは思うのかわからない。

 

 

 

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(以下は『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』のネタバレを含みます。ご注意ください)

 

 

 

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 火曜日の朝、魔法少女まどか☆マギカの映画を見た。本職をしろとじぶんで思った。おじさんが多かった。スーツのひともいて、たぶん営業をサボっているんだと思った。映画はとてもおもしろかった。オープニングからまどかはまどかとしてアニメ版と変わらない家族と日常のなかで、魔法少女として暮らしていて、そこにはさやかもマミさんも杏子もいて、ほむらが転校してきて、五人で力を合わせてナイトメアなる敵と戦っていた。戦いもまた生活の一部で、みんなしあわせそうな生活で、じっさいにマミさんは

「むかしのわたしが望んでた」

 といった。しかしほむらはその生活のなかで世界が改変される前からの正しい記憶を取り戻す。いまの、しあわせな生活が、正しい記憶といくつも食い違っていて、杏子にそれを告げ、ともにその違和感を探るべく街の外へ出ようとするができない。街から抜け出そうとするとたちまち空間は迷宮の様相を帯び、それはかつて存在していた、しかしいまはまどか(=円環の理)の救済により存在しないはずの魔女がひとを惑わす手口そのものだとほむらは気づく。つまりそれは街のどこかに魔女がいることを示していて、ではいったいだれが魔女なのだろうということになる。ほむらはこの空間でマミさんととても仲良く住んでいる「ベベ」というぬいぐるみみたいないきものが、違う時間のなかでマミさんを殺した「お菓子の魔女」だと思い出し、それがすべての元凶だと決めつける。マミさんに内緒でこらしめようとしたけれども、マミさんはほむらのその行為に気づき、怒ってふたりは戦った。ほむらはマミさんに拘束され、マミさんにほんとうのことを思い出すことを促し、マミさんは、魔法少女のほんとうの敵は「魔獣」だったと思い出した。それからだれかがマミさんの拘束からほむらを開放したと思ったらさやかだった。さやかはいないはずの「魔女」を知っていた。ここでさやかはすくなくともマミさんとは違うあり方をしていると、ぼくらは知る。ほむらは魔法で時間を止めようとしたら、

「あんたはその魔法にたよりすぎている!」

 とほむらに剣を突きつけていい放つ。このセリフで、ぼくはなにかすべてを見てしまった気がした。すべて、というのはあくまで彼女らが閉じ込められている、何者かの意思によって張られた空間に関することのすべて、だけれど、さやかとの会話の少し前から空間の主は「しあわせな生活がずっと続くこと」を望んでいるだろうという示唆があり、そこに込められているだろう、永遠、という理想は、他ならぬほむらにとっていちばん切実なものだ。ほんらい存在しないはずのまどかとの、ずっと続く生活のほむらの渇望がかたちになったものが魔法そのもので、それを使おうとするほむらにさやかはさらに、

「あんたはそうやってすぐにじぶんの時間のなかに逃げる!」

 と続けていい放つ。魔女を知るはずのない世界で魔女を知るさやかを、ぼくはとてもこわいと思った。さやかはどうしてこのつくられた街、ほむらの祈りとか願いとか呼ばれるものが作り出した迷宮に存在できているのか、そして彼女のあり方は、ほむらの祈りや願いに正しい世界を否定する暴力そのものだと思った。それからやはりほむらたちの過ごす街が、ほむらの作り出した「魔女の結界」という事実にほむらはたどり着き、魔女がいないはずの世界でなぜそんなことが起こったか、という問いに発展する。それは、インキュベーターの実験であることが、他ならぬキューべーにより語られる。インキュベーターは「円環の理=まどか」の観測を目的とし、最終的に「円環の理」を所有する企みがあるとほむらは悟り、激怒する。そしてその感情の昂りが、ほむらを完全な魔女と変える。しかし、ほむらの祈りや願いと呼ばれるものは、ほむらがまどかを所有することだった。それは欲望とも呼ぶことができ、さらには概念そのものとなることを願ったまどかを作り出した張本人であるがゆえに、ほむらの愛憎渦巻く願い、あるいは祈りは、更なる世界の改変を引き起こす。その現象を引き起こしてしまったほむらは、自身を「悪魔」と呼び、高度な知性を有するインキュベーターを凌駕し、使役し、まどかと対となる存在となる。

  魔法少女まどか☆マギカは、かなしい物語だと思った。この物語は、願いや祈りと呼ばれる切実さが、しあわせやかなしみ、呪い、そういったあらゆる断面から描写され、そのたったひとつのものである現象の解釈の激しい転移により、しあわせもかなしみもない、白色雑音として昇華される。無意味、とはいわないけれども、あらゆるものを定義しえぬものへと徹底的に貶めたような気がして、おそらくそれをぼくは、かなしい、と感じた。願い、祈り、呪い、ひとつの現象を指し示すことばは多々あって、それは同時にことばは現象そのものを指し示すことができず、いつも解釈としてしか存在できないのではないか、と思った。宇宙が滅んでも絶対的な存在であり続けると思える数字という言語さえ、すべてを知り得る知性からみると、ちっぽけな解釈のひとつでしかないかもしれないと思うこともまた、ぼくにとってのおそろしさだった。

 

「キャラクターの名前、ひとりもわかんなかったしおぼえてねぇわ」

「意味わかんなーい」

 ととなりのたぶん十代のカップルは終わってからいっていた。むかっとしたけど、おとなのぼくは怒らなかった。家でセックスしとけぼけ、と思った。

 

 

 

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 ハロウィンパーティをリズールでやると知ってすこしだけいくことにした。梅田駅には負傷者がたくさんいて、かたまって楽しそうに話していた。店にも負傷者がたくさんいて、魔女もいて、みんなたのしく飲んだりしていた。

 

 たのしい場を離れることがかなしかった。帰りにすこし泣いたのは、どうしてぼくはぼくを悪とみなしながら、まっとうにひとのためにつくせないのか、とつよく感じたからだった。それでも、書く、という行為以外で、いまできることをぼくは知らなかったし、たぶん、書く、いう行為のもつほんとうのこと以外に知りたいことなんて、ただのひとつもないのかもしれない。書くことになにかをどうしようもなく求めているのは間違いない。書くことは願いであり、祈りであり、呪いでもあるだろう。ぼくはそれにすがりつくことしかできない。しかしその営みがぼくでないひとのしあわせをもたらすなんて、ありえないことなのだ。