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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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語られるべきではない、口にだしてはならなかったことたち

日記

 

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

  • 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 単行本
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新潮 2013年 11月号 [雑誌]

新潮 2013年 11月号 [雑誌]

 

 

 

先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ

 

 

 

ヘヴン

ヘヴン

 

 

 

The Physics of Phonons

The Physics of Phonons

 

  

ガラテイア2.2

ガラテイア2.2

 

 

 

 

 十月に、ぼくはぼくのすべてを出し尽くしてしまって、十一月のいまは学会前だというのに絶望的に無気力だ、燃えカスだ、生きている価値がないというか、生きてすらいない。それでも思考するためにひたすら日記を書き続ける。

 

 

 起きて研究室にいく。電車のなかで「利己的な遺伝子」を読んだ。先生が進路調査の書類を書くから就職先の名前を教えて、といい、ぼくは会社の名前と業種をいった。今年、D論書くのはやっぱりむずかしいねえ、という話になって、はい、といった。さくっと学術論文でも書いてくれたら博士あげるのに、などいわれてとても申し訳なかった。

 ぼくは、もうずっと前に論文を書くことをしない生き方をすることを選んでしまっていた。論文をいまのままじゃ書けないとわけだけど、努力以前に、ぼくが科学者として生きていくことはとうていできないと思い込んでしまったのが、ぼくにとっての一番大きな絶望だった。小さい頃の夢だったものになれるかもしれないところまできている、と思っていた時期もあったけれど、それは「科学者」という漠としたかだこよさだけに抱いてたあこがれに他ならなかった。「科学者であること」というものを、ぼくはホントのところちっとも求めていなくて、「世界でだれも知らなかった考え方を見いだすこと」がほんとうにしたいことで、それは職業という枠組みに無関係のものだった。そして、すくなくともぼくはいまいる分野で、だれも知らなかった考え方なるものを見いだす力もなければ、それに向かっていく気力もない。博士取得後、分野を変わって活躍する研究者はたくさんいるのだけれど、しかし、いまのぼくの意志が向かっている場所はもはや科学ですらない。アメリカ留学はぼくが科学者として生きる覚悟があるかの、最後の判断をするためにいった。結果は出せた。しかし違うと思った。留学の間に想像した研究者としてのぼくは、かつて思い描いた理想のありかたとは著しく違った。帰国し、ぼくはひたすらじぶんがほんとうに開拓したいフィールドがなにか、必死に考え続けた。わからなかった。しかし可能性があるとすれば、小説を書くことで、本気でなにかをしようと思ってやりきれるとしたら書くこと以外にありえない、というか、それしか残ってないと思った。確信した矢先、文學界新人賞の三次予選を通過したと知り、もう選んだ道を振り返らないと決めた。つまりことしの春の時点で、ぼくは博士の取得すら放棄していたということになる。振り返らないと決めたのに、博士取得に関してはとても苦しかった。じぶんひとりの力でいまの場所にいることができているわけでもないし、奨励金をもらっているこその社会的な義務もあるし、なにより、かつてのじぶんを無下にしているのではないかと思った。かつて決めたことをやり抜けもしないで、いまの確信を貫けるはずもなかろう!と思えてこわかった。いまもこわい。じぶんがどうしようもない悪に思え、またじぶんのありかたとは関係ない次元でも、小説を書く、ということじたいがどうしようもなくあって、だからぼくはどうしようもない悪でしかなかった。その、悪、という意識だけを持って200枚ほど書いて放置してあった「イルイナイ」という小説を改稿・完成させた。この小説は、いまになって思うとおぞましいほどに強欲な小説である気がする。完成稿では160枚ほどのところを書いているときに、友だちの赤ちゃんが友だちのお腹のなかで死んだ。ぼくはその友だちのかなしみまで所有しようとした。ぼくの推し量れないもののすべてをうつくしいと思い、どうしようもなく欲し、他者の存在を踏みにじってまで手に入れようとしていた、救いようがないと思った、許されないと思った、それでも書くしかできなくて、ああ、ぼくはやっぱり悪なんだ、と思った。むかし、小説を書いている違うクラスの男の子が気持ち悪くて、話したこともないのに嫌っていたことを思い出した。

 

 

 朝起きて喉が痛かったから、また風邪を引いたかもしれないと思いながらシャワーを浴びた。今日は缶・びん・ペットボトルの回収の日で、家を出るときに出しといてと妻がいっていたのを思い出して忘れずに出した。電車のなかでは新潮11月号の川上未映子「ミス・アイスサンドイッチ」を読みはじめて、これは子どもの名前を考えたりしているときに構想をはじめた小説なのかな、とつまらない邪推をした。この小説は小学校四年生の「ぼく」の一人称で語られ、かれの目を通したかれの生活が書かれているのだけれど、名前、というものが強い存在感を持っている。名前、というよりは、名付ける、呼ぶ、といった行為にあるかもしれない。すごいまぶたを持つスーパーの女のひとを「ミス・アイスサンドイッチ」と名付けること、その特別な名前で呼ぶこと、ドゥワップ、ヘガティーと友だちを呼ぶこと、そういった名前のもつ特別さが際立っていて、語り手の「ぼく」はそれによろこびを持っている気がした。特別な名前、は街のいたるところにもあって、それが冒頭の文章で並べられた、フロリダ、丁寧、教会薬、チョコ・スキップ、四十代、野菜ブーツ、雨のお墓、大猫ベンチ、とすくなくとも「ぼく」が呼ぶものなのだろう。でも学校で流行っている謎の遊びのときに発せられる、ヘニモ、ということばに「ぼく」は辟易しているところがあって、もちろんことばでなくその発声にあわせて頭を叩かれることへの辟易がほとんどだろうけど、「ぼく」でない他者のことばへの嫌悪というかたちも、もしかしたらあるかもしれないとぼんやり思った。半分手前くらいで読むのをやめてしまった。むかしは川上未映子がほんとうに好きで、「先端で、さすわさされるわそらええわ」という詩集を読んだことがいまこうして小説を書くようになったひとつの動機だったのに、あまり快い文章ではないと思ってしまってかなしかった。川上未映子は「ヘヴン」以降とても変わったし、それは変わるべくしてといった作家としての必然をもってのことだったと思うし、でもその変化はかのじょそのもののありかたまでではなく、あくまで、小説で使うことば、という表面上の変化だと思っているつもりだ(ここは複雑な問題で、使うことばじたいが本質である場合ももちろんあるし、どちらかといえば川上未映子はことばが思考するような作家だから、ありかたそのものの変化、ともじゅうぶんに考えられる)。いまでもあの詩集は好きだ。だけれどもやはり最近のかのじょの小説をあまりおもしろく読めていないのは、そもそもぼくがかのじょの書くものを、ことば、という表面的なものとしてしか読めていないのかもしれないと思った。そしてぼくは「ミス・アイスサンドイッチ」という小説で使われていることばが、たぶん嫌いだった。こどもの知性を考慮した上での語彙の選定、という技術的な処理がなされていないからというわけでは決してないのだけれど、こどもの目から見る世界なのに、おとなの都合にまみれていると思ってしまい、それはつまり小説世界に絶対として存在している「ぼく」を、読み手が全否定してしまったということで、どうしてぼくは小説をこんな読み方で読んでしまったのだろうと、勝手に深く傷ついた。

 

 

 研究をしたり、physics of phonon の輪読をしたりした。じぶんのモデルやコードを見るたびに、無意味だ、と叫びたくなる。

 

 

 せおくんに

「走りませんか?」

 と誘われたけど運動するための服とか靴とかを持ってなかったから断った。せおくんは、

「マラソン走ってるひとって、走ってるあいだなに考えてるんでしょうね」

といっててたしかにそうだなあと思った。箱根駅伝のランナーが一時間ものあいだ、

「この襷をぜったい次に…っ!」

 みたいなことを絶えず考えているなんて考えてみればなりえないなと思った。沿道のかわいい女の子を探したりもするだろうし、エロいことも考えるだろうとも思った。それからせおくんはひとりで走りにいって、一時間か一時間半かしたら帰ってきて、

「やっぱなにも考えないものですね」

 といって、

「まあエロいことを考えてた気はしますね」

 ともいった。

 

 

僕はこの町で最愛の物理学を裏切り、文学と寝た。(リチャード・パワーズ「ガラテイア2.2」)

 

 折に触れて読み返す小説の、この一文が胸に穿たれたまま、おそらく一生消えることはないだろう、と何度も思いながら今年という時間を生きてきて、いまもその時間を生きている。科学者になることをぜったいの未来にさだめたかつてのぼくのありかたを、いまの絶望したぼくがただのモラトリアムだったと書き換えようとし、それでもかつてのぼくは必死に物理を追いかけていたのだと、やはりぼくは示したい。D論書け、という話になるが、それはすでにじぶんの営みのむなしい正当化以外の意味はなく、そういうものを生み出すことでお世話になったひとたちに恩返しなんてできない。科学を個人的な精神の安定のために所有するなんてゆるされない。現象のためだけに尽くされるべきだ。

 

 

 最近書いた小説「イルイナイ」の感想を、いくらかの友だちからもらった。うれしかった。みんなどこかの文脈でよかった!といってくれて泣いた。お返事の中でぼくはそのひとたちにこの小説の徹底した方法的な側面を気がついたら説明していて、かきながら、こういうことが独りよがりというのだと思った。こういうことをしてしまう時点でぼくの意図がまったく達成されていなかったのだという事実にほかならない。作者の意図、というのは正直かなりつまらないものだと思う。小説はどんなに立体的なありかたをしていたのだとしても、それは読者、という平面で切り取られ、それはときに書き手が予想だにし得なかった形をしているもので、ぼくのしたことは、そういう読んでくれるひとからみた小説のありかたの否定にほかならないだろう。本と個人のありかたを、エゴでもって踏みにじった。そしてあらゆる読者という平面から切り取っても不変である(部分としての)風景を、書き手はひとつでも残せたか、ということから逃げてはいけないと思う。小説が閉じたそのひとひとりのなかで読まれる、という大前提があって、なおかつ閉じていながらもほかの見知らぬ読者のみた風景、あるいはぼく自身が身を置く歴史という流れへと繋がる、ということがなければ、それはまだ世に出てしかるべき、とはいえないのではないかと思った。しかしそれでも、この小説が世に出て欲しいとどうしようもなく願っている。

 

 

 小説を読んだり書いたりすることを純粋に欲しているひとが、ただ小説家になりたいだけの、ぼくの全存在をかけて否定してやりたいつまらない人間に理不尽な目に合わされていて、その怒りがいまもまだ収まらない。ただ「純文学」とよばれるまやかしの虚像にあこがれを持つだけで、書くことや読むことにあまりにも鈍感なだけでなく、それすらもしようとしない、ああいったひとをみるとほんとうにくだらないと思う。しかし見方を変えればぼくだったああいったくだらない輩となにひとつ変わらない。ぼくのこの怒りは、正義でもなんでもなく、ただの個人に向けた悪意だ。

 

 

 またしても小説を書き始める。しかしこれはじぶんが考えたいことを考えるためだけのもので、ひとに読んでもらう価値はないだろう。ぼくはいまのぼくのありかたを全否定したい。