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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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世界と金閣寺

日記 読書

 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 

  

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

  

 ちゃちゃおが電話でぼくの小説の感想を教えてくれたけど、ぼくはまたつまらない書く側の事情の説明をしてしまって申し訳なく、もしかしたらそれはぼくが二日酔いだったから、と考えようとしたじぶんがいやだったけど、ちゃちゃおは、

「まちゃのひとりの友人としてあの小説を読めたのがうれしかった」

 といってくれ、とてもうれしかったと同時に、やはりつまらないことをいってしまうじぶんにいやな気分になった。たぶん、ぼくはもう自作についてなにも言わない方がいいと思った。

 その日曜日の昼から森見さんの朗読会がリズールであって、それのお手伝いにいく予定だった。電車に乗っているときに見たTwitterで佐川さんがふと時間ができたのでリズールにいくとつぶやいていて、ぼくはあっと思って返事をし、なんなら終わったあとに飲みましょうといって、佐川さんはぼくとほとんど関わりがなかったのに快諾してくれて、それまで小説を書く怖いひとだと思い込んでいたけど、怖くないひとかもしれないと思って会うのが楽しみになった。

 リズールにつくと、もう十人くらい並んでいて、え、まじ、と思ってみた時計はまだ受付開始まで一時間あって、ほとんど女性だった。なかでも椅子出しとか本移動とか始まろうとしていて、せっせと手伝ったらあっという間に終わり、吉村さんが、

「ちっと慌てすぎたな」

 といって煙草を吸った。まだ三時になってなかった。ぼくは煙草を持ってなくて、吉村さんに煙草をもらい、ドキドキしながらこの前に書いたやつどうでしたか、と聞いたら、その感想を教えてくれた。吉村さんはほとんどぼくが意図したことを見抜いた上で、あれじゃあかんで、というような感想で、ぼくはやっぱりそうなんだと思った。何人かのひとにも指摘されたことどけど、今回の小説だけでなく、ぼくの書くものはいつも物語らしい物語がない。そのことに関してぼくはぼくの確信があってやっているのだけれども、最近はそれに限界があるとはいわないけれど、それだけじゃダメなんだという気持ちが大きくなっている。例えば、世界、という大きなものを書こうとしたとき、有限の文字数でそれを書くならばどうしても抽象という形をとらざるをえなくなる。だけど、世界、というものを書こうとしたとき、書こうとしたものにあるのはどこまでも具体的な世界であって、具体的でないならおそらくそれは世界とは呼べない。抽象であるかぎり、それはイメージであり、イメージでしかなく、手触りがない、リアリティから解離したもので、つまりはどうしようもない偽物だ。それでも書き手の手に終えないとてつもなく巨大な世界というものを書くのならば、思うに、どうしようもない小さな出来事、日常を積み重ねることが、最初の一歩であり突破口と乗るのではないか。世界とはありかただ。ありかたとは生活で、世界は個人のありかたによって導かれるひとつのありかたで、一人称的世界のありかたを三人称、あるいは非人称的なありかたに一般化する回路を開くことが、おそらくぼくの信じる小説だと思う。ならば、物語、とはなんだろうと考える。一人称→三人称という、世界認識の連続的な変化を物語とぼくはすくなからず信じていたけど、結局それはあまりにも論理的過ぎるありかたで、ぼく、という作者一人称の手の内から逃れることができていない。吉村さんがいった、いうほどガツンとこなかった、という評価はそれをいっているのだと思う。小説はきっとそういう小難しいはなしじゃない。

 朗読会が終わってから店を通常営業の形になおして、それから佐川さんにもう一度はじめましてをして、爽やかだなあと思った。もっとやばいひとかと思ったけど、やっぱりちがうなとまた思った。それからほかに南雲さんと女子大生(二回生!)と名前とTwitterのアカウントを頑なに教えてくれないドラマーのぼっちのおにいさんと小説のことを話したけど、なんだかぼくばっかり話していたような気がしてだめだな、と思った。女子大生は最近は金閣寺を読んでいるらしく、ぼくは三島が苦手、といえば、佐川さんと南雲さんに「金閣寺」をお前はほんとうに読んだのか的な質問をされて読んだことがないのがばれた。三島は「仮面の告白」がとても苦手で、もうこんな作家の小説を二度と読むか!と思ったのだったけど、なにが嫌いだったか、気持ち悪いという感触は残っているけど内容のあることはほとんど忘れてしまっていた。佐川さんにもらった名刺がかっこよくて、おお、ってなった。

 

 次の日に「金閣寺」の文庫を買って、ほんとうはやらなくちゃならないことをうっちゃって読みながら、かつてなんであんなに三島が嫌いだったのか、いまはどうなのかを考えていた。考えていたら一日が終わっていた感じもあって、くず…、と思った。

 

 私はいろいろに角度を変え、あるいは首を傾けて眺めた。何の感動も起こらなかった。それは古い黒ずんだ小っぽけな三階建てに過ぎなかった。頂きの鳳凰も、鴉がとまっているようにしか見えなかった。美しいどころか、不調和な落着かない感じをさえ受けた。美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた。

 もし私が謙虚な勉強好きの少年だったら、そんなにたやすく落胆する前に、自分の鑑賞眼の至らなさを嘆いたであろう。しかし私の心があれほど美しさを予期したものから裏切られた苦痛は、ほかのあらゆる反省を奪ってしまった。

( 三島由紀夫『金閣寺』)

 

 

 Twitterでぼくがいったことはほとんど文章の感触から思ったいい加減の域をでないはなしなのだけど、それを最初につよく思ったのは、上に引用した主人公が父とともにはじめて金閣を訪れた場面だ。三島の文章はとにかく明晰であって、しかしかれの「書く」という行為のもつ明晰さが過去のある時点の「私」につよく作用しすぎ、リアル、というよりも、捏造、という印象を強く持ってしまった、というのがぼくの感想だった。過去の、少年だった「私」が金閣をみてもさほど感動しなかったのは事実だと思うけれど、そのディテールならびに思考や想起の運動は、書かれている少年の「私」のものではないような気がする。物語である以上、そのように語られてしまったのだったらそれが絶対として存在しているから、つぶさな描写や思考のすべては少年の「私」によるものだとされてしかるべき、だと思う。しかし、この小説には、書かれているひとやものと時間を異にする存在がとても濃い影を落としていて、その影によって書かれているものが「実はそうであったのではないか」という風に、知らず知らず思い込まされている感じがする。それは手記、という形式によってもたらされた結果で「仮面の告白」にもつよく表れていたのかもしれない。しかし、いまのぼくは小説においてその影が悪いとはちっとも思わなくて、むしろその影による、恐れ、のようなものの蓄積が狂気となり、書かれているものに具体的に起こる出来事として具現化していく「金閣寺」という小説を、いまもおもしろく読んでいる。具現化することにはとてつもないエネルギーが必要で、それは想像力と呼ばれるものかもしれず、ぼくにいちばん足りていないもののような気がする。

 

 われわれと世界とを対立状態に置く怖ろしい不満は、世界かわれわれかのどちらかが変われば癒される筈だが、変化を夢見る夢想を俺は憎み、とてつもない夢想ぎらいになった。しかし世界が変われば俺は存在せず、俺が変われば世界が存在しないという、論理的につきつめた確信は、却って一種の和解、一種の融和に似ている。ありのままの俺が愛されないという考えと、世界は共存し得るからだ。そして不具者が最後に陥る罠は、対立状態の解消ではなく、対立状態の全的な是認という形で起こるのだ。かくて不具は不治なのだ。……

( 三島由紀夫『金閣寺』)

 

 

 あたらしい小説の冒頭を書いて消して書いて、消して書いて消した。