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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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音楽、かなしみをかなしみと思うこと

 先週の日曜日は妻のおばあちゃんの三回忌で滋賀県にいくと雪が降って積もっていた。前日の夜から滋賀にいて、その時は雪は降っていなくて夜が遅くなると雪が降っていると妻が教えてくれて、ほとんど鏡になった窓ガラスの向こうで、家の塀に雪が積もっているところをすこし見ていた。家にヒートテックを忘れてきて、滋賀をなめていたと思った。
 ぼくの実家は真言宗で、妻の実家は浄土宗だった。妻は結婚する少し前に数珠を買いに行って、そのとき宗派が違うと数珠が違うんだとふたりで知った。浄土宗は知恵の輪みたいなふたつの輪の数珠で、真言宗は大きなひとつの輪だった。法事ではぼくも妻も真言宗の数珠しかなかったからそれを使った。お坊さんがお経のテキストみたいな本を配って、かれが読み始めるとみんな後に続いた。ページが何回か変わるとたくさん脱落した。ぼくのとなりにいた義妹は授業を真面目に受けていた系の女の子なんだなと思った。

 この日はギタークラブのOBやら他大学の子やらの演奏会があって、結婚式の二次会の写真をもらうついでもあって法事が終わってから京都に聞きに行った。開演には間に合わなくて、演奏の終わったタイミングでうまく紛れ込もうと思ったらドアを開けたらいきなりホールでびっくりしてからすいませんと思った。バリオスの郷愁のショーロを知らない男の子が弾いていた。写真を二次会で撮ってくれたおおくぼがソルの悲歌風幻想曲を弾いて、よこやまがタンスマンの知っているけど曲名を覚えられない曲と知らないひとのかっこいい知らない曲を弾いていた。聴きながら思うことが多かった。ソルの悲歌風幻想曲はソルの友だちかなにかのシャルロット夫人の死に際して作曲された曲で、死、という意味が強く現れる。悲劇的な和音にはじまり、痛みのともなう静寂に導かれて幻想曲が立ち上がっていく。死、という意味から喚起されたかなしみのイメージをソルは間違いなく持っていたとは思う。けれども、かれの書き起こした譜面にあるかなしみを、弾く側や聴く側がかなしみとしてとらえることははたしてどうなのかと思った。ここでのかなしみは、死、という意味に従属のものであり、死そのものではない、というのもあるけれども、たとえば100%のかなしみだけで作られた曲があったとして、それを奏者や聴衆がかなしみとして受け止めるということが、100%の正しさとなるのか。もしもその100%のかなしさで作られた曲があって、それがそのかなしさそのものと完全に等価なものだとしたら、それが音楽というかたちをとることの価値はいったいなにか。ぼくはこれまでなにかの価値を考えることが好きじゃなくて、おそらく今後も価値を考えるということに、くだらない、と思うことをやめないだろう。しかし、おそらくそういうことを何処かのタイミングで真面目に考えなければならないだろう。表現、という行為に対し、行為者として同時に鑑賞者として、好きなことばではないけれどもぼくは何らかの可能性を感じているのだと思う。かたちのない生の感情が、音楽ないし文章という形式を得てかたちのあるものとなったとき生まれる価値。

 ぼくは伝えるために表現という行為があるとは思いたくない。個人が個人的に所有する感情であり世界を、他者の理解可能なものへ変換するため、つまり伝えるために人間は言語を発達させてきた、という説明を何度も受けたことがあって、それを否定することはしないけれども、それがすべてではないと思う。言語の「本質」が伝えるという行為だというひとが、小説を読むと「なにがいいたいのか」と問うことをやめない。ぼくはそれがとても不思議で、それは存在を意味の側から問うこと、つまり、あなたはなんのために生きているのですか、ということに全くおなじになる。なにかをするために生まれてくるひとをぼくは知らない。存在に先立つ意味なんてないとぼくは思っていて、そして言語が長い時間をかけて発達したことにより、言語もまた存在する意味から解放されたのかも知れない、と考えるのがぼくは好きだ。なぜひとがひとのかたちをして発生したのか、生物が発生したのか、なんて知らないけれども、たとえばそうする方が結果的に宇宙を延命させるとか、エネルギー的に安定だからとか、他の宇宙と交信するためのツールとして発生したとか、そういう理由があるのなら、言語と生物のちがいはほとんどないような気がする。言語はひとの思考や感情の張る空間で運動する生物とすれば、たとえそれが特定の個人のなかにしかないとしても、それはその個人とはまったく違う存在で、所有、ということばからくる従属関係ともおそらく無縁だ。つまり他者だ。表現はことなる空間にある世界と、表現主を接続することにこそ、ぼくの感じた可能性なるものがあるかもしれないし、接続、という意味からみれば、表現主と鑑賞者のちがいは微々たるものかもしれない。けれどもその微々たる差もまた、可能性のひとつだろう。それはぼくやぼくでないひとが楽器を弾いたり、作曲したり、絵を書いたり、文章を書いたりする動機なのだと思う。とてもとてもちいさな、しかし巨大な意味を持つそれについては、行為でもってしか考えることはできない。書きながら、時間がかかっても考えなくちゃと思う。個人の、ぼく自身のかなしみや感傷をぼくの所有物とするのでなくじぶんから切り離された、独立した存在として扱わなければ、たとえばおはようとおやすみがすれ違いざまにこんにちは!と話すのを、どんな顕微鏡や望遠鏡を使ったって見ることができない。神戸に雪は降っていなかった。とうぜん、積もってもいなかった。