カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


努力なるもの

ずっと、努力というものがこの世で一番くだらないものだと思っているし、いまでもそれは変わらなくて、それはあらゆる営みを努力ということばでさししめしたとき、それは単なるそのことばを使った人の無能さを自慰的に肯定しているにほかならないと思うからだ。だからぼくはじぶんのやることを努力と呼びたくないし、研究においても創作においても、いわゆる「がんばればできる」ようなことはぜったいにしたくなかったし、間に合わせのかたちでじぶんの立場を正当化するようなことだけは生きている限りしたくない。

だけど、ふりかえってみればじぶんの潔癖が残したものはなにもなかった。博士課程に進んで、あたらしい発想を出そうとすればするほどじぶんが身を置く分野の「やり尽くされてしまっている感」や思想的な革新でない、絶対的な評価軸上にある数字への追求にある徒労さへの失望ばかりが積もった。実用、という想起の上での境界条件のようなものが煩わしくて、その拘束を取り払ってしまえる領域でならぼくは自由に発想できるかもしれないと思って小説を書き始めたことを、小説を書くきっかけになった詩集を読み返しながら思い出した。
ぼくは小説でたとえばヒューマン!な感じとか、哲学!な感じとか、どことなくくだらないと小説を書く前から思っていて、もちろん頭ではすばらしい小説であるのは疑い用もないけど、ドストエフスキーやらトルストイやらサリンジャーやらを、心の底から面白いと思えたことなど一度もなくて、そういう小説から文学的権威を取り払い、現代の同世代のひとが「ほんとうに」おもしろいと思えるかどうか、ぼくはかなり疑わしい。それはいわゆる純文学の本が売れないとかなんとかそういう問題への言及と等価なものであると思う。だからぼくはヒューマニズムやら哲学やら思想やらを、本気でくだらないと思い、本気でくだらないものとして切り捨てていくことに「ほんとうは」可能性を持っていた。はずだった。
 
だけど実際にぼくが書いてきたものはどうなのか。最近、まえの小説を読み返して、ぼくのなかで凄まじい嫌悪感が湧いてきた。まだ結果は出ていないのだけど、この小説でぼくは思いっきりぼくがかつてくだらないと思っていたあれこれをやってしまっているような気がしたし、それがどうしょうもなく「本気」であり「真面目」であり、なにより絶望的なまでに「努力してしまっている」ことが、耐え難くつらかった。この嫌悪感は「これだけ絶望的な努力をしてしまった小説でなんの評価も得られなかったケースへのセーフティネット」によって生じてしまったものだというのはまず間違いないけれども、でもやっぱり「文学的であろうとするじぶん」というのがどうしようもなく救い難く、いまは思えてしまう。これを書いているとき、これを書き切ったあと、そして今回読み返して、どれだけぼくがぼくの努力してしまったということへ絶望しても、やっぱりこれしかぼくには小説を書いた!という確信が持てるものはない。なによりも大切な小説なのは、ぜったいに変わらない。どうあがいても。
 
苦しいのは、ぼくがそれにとらわれすぎていることで、その後の枯渇感でほんとうになにも書けない状態におちいってしまっていること。書きたいものはあるのに、文体のありかたや構造、なぜ小説が書けるのかといった問いに誘発され、無意識的に「文学的なもの」であろうとするじぶんの救い難い自意識。くだらない。ほんとうにくだらない。ぼくは次を書くためにいままさに努力してしまっている。
 
努力することがくだらないと思っている人間が努力をした結果、手元になにも残らないということが、なによりもこわい。こういうことを考えることじたい、ほんとうにくだらない。
 
科学を志したりしなければ、小説に惹かれなければ、とかのたらればをいえばきりがないけど、あらゆるものから逃げ続けて小説にたどり着いてしまったいま、小説からも逃げたしてしまったら、もうほんとうにだめ。
 
まだまだやれる。