カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

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木下古栗とトマス・ピンチョン――意味へむかうこと、意味であること、意味が生まれる瞬間

 

ポジティヴシンキングの末裔 (想像力の文学)

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いい女vs.いい女

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競売ナンバー49の叫び (Thomas Pynchon Complete Collection)

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 去年だったと思う。

 小説をとても書けるお友だちYさんといっしょに飲んでいるとき、ひとがほんとうに絶望したなかで読める「意味」などあるだろうかという話になった。そのときは大阪府公務員の不正事件がいくつか起こっているなかで、たとえばその渦中にあるひとだったなら、はたして強大な「意味」を語る小説を読むことができるだろうか。ぼくはそれをできるわけがない、とおもったし、Yさんも読めない、読めるわけがない、といった。ひとの強い絶望は、あらゆる意味を拒む。意味は、ひとの理性のなかでしか生きれない。「意味」そのものである小説が絶望したひとのなかに存在できないのだとしたら、絶望、という「意味」をも抱えうる「小説」ははたしていったいなにというのか、ということをぼんやりと思ったことを、さっきお風呂に入りながら思いだした。

 ぼくはここのところ、なにごとにおいてもじぶんの無力さを感じたりして、客観的に見れば全然大したことのない、だけど主観においては絶体絶命のかなしさのなかにあって、それでも小説を読もうとしてもなにも読めなかった。読みたいはずだったマキューアンの「贖罪」を読みたかったけど、ひとつも頭に入ってこなくてできなかった。でも木下古栗の「無限のしもべ」「いい女vs.いい女」「ポジティブシンキングの末裔」を読めた。読んで、とても救われた気分になった。

 木下古栗の小説には、とにかく意味がない。中学生レベルの下品でありチープである妄想が気分ひとつではじまったり捨てられたりし、徹底的に意味を放棄し、意味することすらも放棄している。いや、そもそも「意味」という概念が本来的に存在していないとぼくは読めてしまう。だからいまのぼくが読めたのだと思う。先に挙げた絶望にはほど遠いとは思うけれど、それでもちいさな絶望のなかにあったぼくに対抗できた小説は、マキューアンでなく、木下古栗だった。

 意味であることと、意味しようとすることは、まったくの別次元にあると思う。ぼくの思う意味とは、たとえば「○○主義」「命はたいせつ」みたいなひとこと、あるいは短いことばで指し示すことのできるもので、しかし詩や小説ではそういう表示を激しく拒む「なんらかの存在するもの」があって、ことばを積み上げることで「近似的に」そこへ向かっていこうとする運動がありこれをぼくは、意味しようとすること、だと思う。特に意味しようとすることは、意味しようとする意識ゆえに「近似的」であることを避けられない。つまり、意味しようとすることは、それ単体では目指した意味とはなりえず、しかしそこに読者の想起が入り込むことではじめて意味となりえるのだと思う。こういった「意味」と「意味へむかうこと」の関係がきわめて顕著にあらわれていると思う小説がぼくにとってはトマス・ピンチョンの(特に)初期の作品群だと思う。たとえば「競売ナンバー49の叫び」では、存在のあいまいな組織「トリステロ」の存在を確認することを目指してエディパは行動し、小説は展開する。そのなかでさまざまなひとやできごとに遭遇し、そのたびにトリステロ(=意味、とこの記事では読んでもらいたい)の存在が示唆されるが、それはどれもあくまで「存在するかもしれない」という可能性を強めるけれども、それを証明するものとはなりえない。存在の確信は100%へ近づくけれども100%にならない限り、存在は確定せず、どこまで進んでも存在を確認できないということがかえってそれが存在しない可能性を強調する。それでもその存在しないかもしれないものを、不特定多数がその存在を主張するということが妄想の共有――ピンチョンの作品群を示すことばでよく用いられる「集団的パラノイア」――を狂気とともに喚起する。意味の存在を証明することの不可能性が、あらたな意味となって小説を支配する。ぼくはピンチョンにそういったものを感じる。

 ここで話を木下古栗へ戻すと、かれの書くものはこれにちかいものをぼくは感じる。木下古栗の小説では、ほかの多くの小説が最終的に目指すことになる「意味」なるものが徹底して不在だ。文章もエピソードも前後の流れをほとんど持たないといえ、小説そのものが書かれたその瞬間でしか存在していないように思えてしまうほど支離滅裂である。つまり先にいったように「意味しようとすること」を完全に放棄していて、それを放棄しているからこそ小説がいやおうなく持ってしまうはずの「意味」じたいが存在しない。しかし、そうしたからこそ結果的にかれの小説群は「虚無」という意味を獲得することになる。意味なるものの不在、意味でありえることの不可能性が、虚無という意味を喚起する。だからぼくの主観(想起)が大きく作用してこのような批評めいたものがまがりなりにも可能だったのだと思う。ぼくは完全に文学は門外漢だけれども、おそらく、批評というものは意味がないところには存在できないのだと思う。しかしおもしろいのは、無意味、といいつつも木下古栗を批評するものが複数いるということで、一見時間のはげしい無駄遣いとおぼしき文章に対してかれらがなんらかの意味を見出しているということだとぼくは思う。古典名作と呼ばれる小説と決定的に違うと思えてしまうところは、たとえばドストエフスキーやトルストイ、トマス・マンといった偉大な作家の作品は、絶対的に存在している意味を「作者」が発掘するような作品だったように感じられるのに対し、木下古栗の小説は、本来的に意味を持たないところに「読者」が意味を発掘するという要素が圧倒的になる。「意味が存在し、その意味を目指す」というテンプレートにかれの作品をむりやりはめ込んで解釈するなら、「意味しない」いう「意味」を「意味しようとした」結果、小説として存在できたのかもしれない。しかし、そういう形式的な解釈で小説そのものを捕えようとするのがあまりにもくだらなく、滑稽で、木下古栗の小説がぼくを救ってくれた絶対的に存在してしまった虚無は、あらゆる意味を拒んでしまうひとに対し、意味というかたちであることの尊さを実感させてくれる可能性があるかもしれない。ぼくはかれ※の小説を信じたい。絶望のなかで意味が生まれる瞬間がなければ、小説なんてどうして存在できるだろう、と思えてしまう。

 

※ノーブラ

 

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