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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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日記

一年前に書いたものの前半を改稿していて、ぼくはぼくがこのときに書いた文章がこれまでで一番、それも比較にならないくらいに優れているものだと思った。それは同時にこの一年でじぶんがなにもあたらしいことを考えられなかった、ということに他ならないのだとおもった。一年前に書いた文章を細かく見直していると、そのときに書いた文章をいまのじぶんがまったく更新できていないとどうしても思える。それまであたらしいものが常にじぶんのなかで一番良いという感覚でかけていたのに、それがいままるでないということは、この一年、なにもあたらしいことを考えられなかったということに思える。もちろん、あのとき考えていたことを引き継いでいまのじぶんが考えられる、というのはあるし、考えたことが考えたときにすべてを解決できているわけでもないから、一年前のぼくとおなじことを考えていることは悪いことじゃない。しかし、すごくこわいのは、あのときに書いたものに満足しているじぶん、というのがとてもおそろしくて、もしすこしでもそうおもっているのならば、ぼくはもうこの先あたらしいものをなにも書けないだろう。

それまでぼくはじぶんの考えたことを小出しにして小説を書いていた。しかし、そういうことをしている限りじぶんの書くものはほとんど価値がないだろうという自覚を、友だちが全力を尽くした小説を読んでおもったし、全力を尽くしたひとにだけ次があるんじゃないか、ということから逃げてはいけないとおもった。全力を尽くせば、自然と次のものがもう見えているのだとおもった。だからぼくはもう小説が書けなくていいと思うほど全力で小説を書いた。けど、あたらしいものを、確信の持てる形で見えているなんてことはまるでない。パワーズのガラテイア2.2でも、全力の先には自然に次があると書かれていたけど、ぼくには先がなかった、と思うと、根本的にぼくには創作するという能力がなかったのではないか、という疑問がものすごく大きくなって苦しい。一晩、そのことを考えた。

だけど、あたらしいこと、というのは創作というかたちに直接関わることに限られたものでもないのではないか、ともおもえるのだ。そうおもえてしまうことは、ぼくじしんの能力のなさを認めまいとするぼくの自意識かもしれないのだけど、全力を尽くしたあとにまた再びそれとおなじ規模のものが書けるのか書けないのか、という問題自体が、いまのぼくがなによりも切実に向き合わなければならない問題なのかもしれない。そもそも、いま見直している小説じたいが完璧じゃないし、改稿したい箇所は大量にある。だからまだこの小説をいじり倒す余地はすごくあるのだけど、そういうことをすることで得られるものはたぶんない、という直感はすごくある。あたらしいものはあたらしい場でなければ考えることができないだろう。じっさい、これまで何度もそういうことは考えたし、幾つかの小説の断片を書いたりした。が、最後までそれらを書き切れていない。

どうして最後まで粘れず、途中で投げ出してしまうのか。いまのぼくにはそれがわからない。投げ出してしまうのは、これは最後まで続けても以前のものをこえられない、ということがすぐにわかってしまうからだ。なぜこえられないのか、といえば、1文単位で質が著しく以前に比べおちるからで、じぶんの文章をじぶんで評価したとき、小説に文章を書かされているじぶん、というのが透けて見えてしまう。



ちがう研究室の同級生と飲みに行って、ぼく以外のふたりは無事に博士をとれて大学のポストもとれたようでとてもうれしかった。じぶんが博士を取れなかったことはじぶんの力と努力がぜんぜん足りていなかったからだとわかりすぎているので、うしろめたさはあっても、友だちとしてのよろこびがとてもあった。ぼくはぼくのことを科学のひとじゃない、とこの三年間でとても強くおもったのは、じぶんの身を置いた分野のなかで自由に思考できないことに苦しさを感じたからで、ひとつひとつの発想が、分野の潮流に依存し過ぎていたり、複雑化ばかり進めて一般性を著しく失ったようなものしかできなかったのにひどく絶望したからだった。そういうものから遠いところで研究がしたいと自覚したとき、ではなにができるかとひたすら考えてもけっきょくはぼくでなに何者かに考えさせられているという感じが強くあった。なにをどういってもこの三年間であるのはぼくの怠慢ばかりになるけど、博士をちゃんと取得したふたりの友だちは目の前のことをちゃんとできるひとであるのは当然で、すこしだけ授業やセミナーでディスカッションをする場にあっても、ぼくよりもはるかに考える力のあるひとたちのなは間違いがなかった。天ぷら、とてもおいしかった。

ぼくは三月になって、これまでの研究を考えることをやめたとき、急にあたらしい研究計画をひらめいた。それをもとにして最後のディスカッションを先生として、ぼくはこういうことを考えたかったという研究のうれしさが次々にでて、なぜこのタイミングで!と悔しくなった。研究がこれまで以上にしたくなったときに、しかしぼくは出て行かなければならない。時間は戻らないことをかなしくおもった。やれたかもしれないちがうぼくのことを、ぼくは考えないようにして、ちがうことをはじめるのが一番よかった。