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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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ポップアートのなかの新聞記事/舞城王太郎~再文学化された死生観

読書

 

イキルキス (講談社文庫)

イキルキス (講談社文庫)

 

 

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 

 

 

  舞城王太郎の小説について、まずぼくが思うのはあまりにも小説が簡単に書かれてしまいすぎているような気がするということだ。それはもちろん作家の手抜きを意味するものではなく、読者であるぼくが使う労力の低さをいうのでもなく、作品のなかでなされる語り手の思考がそのまま小説になってしまっているという感じのことだ。なにかが起こるから思考するのか、思考するからなにかが起こるのか、物語と思考主体のありかたに明確な序列や区別を持ち込めない、なにか複雑なものがあるように思える。

 文庫本になった「イキルキス」を、妻の実家へ向かう電車のなかで読んだ。ここ最近、舞城王太郎の小説をほとんど読んでなかったから、読んで舞城だ!となって安心した。個人的に「ソマリア・サッチ・ア・スウィートハート」を思いだした。生と死をめぐる思考と、次々に起こる怪事件を軸にした小説構造は、ほぼおなじだったと思う。これらの小説はかつてのペストやコレラや結核を中心に据えた小説群への回帰として、ぼくは読める。

 しかしかつての日本や世界の小説であったこれらの小説を模倣したものを、極めて厳密な意味での模倣を現代の(そして日本の)人間であるぼくらには決してできない。ぼくらは明日突然死んでしまうかもしれない想定のもとで個人ないし人類の生き死にを考えるにはあまりに平和すぎるから、それらについていくら考えてもそれにリアリティがどうしても伴わない。そのリアリティの不在を、たとえばぼくなどはどうしても自覚してしまうため、それを語ることじたいを恥ずかしいと感じてしまう。そしてそのなかで考えたり感じたりした死生観そのものは、かつて世界でなされたそれに回収されてしまい、それもまた恥ずかしい。しかし舞城王太郎の小説はその「恥ずべき思考」をドヤ顔で行う。だからぼくは舞城王太郎の小説を読むと恥ずかしくなることもあるし、いまさらそんなこといってんじゃねーよ、と思ったりもし、つまりベッタベタやな、と思ったりする。明日好きなひとが死んでしまうかもしれない、明日じぶんが死んでしまうかもしれないというかつて流行病によって日常としてあっただろう状況、その場でなされる死生観を現代風に焼き回し切り貼りしたコラージュと読めてしまい、ぼくは舞城王太郎の小説で書かれていることばに全信頼をおくことができない。ポップアートのなかの新聞記事を新聞記事として読むことはできない。

 ながい時間のなかでたくさんの作家や作家でないひとたちにより反復されてきた文句により再現されたかつて小説、というものを舞城王太郎が書いていると読んだとき、舞城王太郎の書く小説は古典作品そのものとはなりえず、ぼくはなんとなくポップアートであるという印象を受ける。もちろん、ピンチョンやパワーズのように実際の社会や事件といった具体的なもののリンクを貼るような手法ではなく、舞城は過去の文学作品へリンクを貼っているように思える。そしてそのリンクを貼る、という創作行為じたいが小説そのものに干渉し、かれの作品は過去のものとはまったく異なる物語の感触であり、意味そのものを獲得したのだろう。ぼくは舞城王太郎の小説は「シチュエーションのもとで思考する」のか「思考によってシチュエーションが生まれる」のか、ほとんど区別がつかない、とさっきいったけれど、それは使い古されたシチュエーションと思想の再文学化によって生じた物語の歪み、と個人的に感じる。すでに起こったことを再度小説化する、という意思をなくして、ぼくは舞城王太郎の小説についてなにかを思うことができない。

 そのひとつの到達にある小説が「好き好き大好き超愛してる」だと思う。メタフィクショナルな構造をとったあの小説は、既存の価値観(普遍と呼べるかもしれない価値観)の再文学化にともなう羞恥心や嫌悪感を、現実に起こった大切なひとの死を文学化することによってほかのどの作品よりも過剰かつ直接的に言及されているようにどうしても読めてしまう。「愛は祈りだ。」と書き始められてしまったこの小説の主人公は、現実にじぶんのまわりで起こったこと、じぶんの恋人や恋人の家族のことを小説の題材にし、発表する。それに対し恋人の弟が主人公に怒る。事実と創作をめぐる議論も、作中作で語られる愛だのなんだのの話もすべて紋切りであるけれども、その紋切りのひたすらなコラージュで創作がおこなわれたとき、書かれている内容より書かれているという行為へ意味が向かう。「好き好き大好き超愛してる」では、過去に語られたこと(=発生してしまった事実)とし、それを主人公が文学化してしまう。姉の死を勝手に意味付けされ、それを不特定多数に開示されてしまった。そしてその意味付けが他者の意味付けとことなれば嫌悪され、ちかいとしてもそれを開示されるのは恥ずかしい。これはぼくが舞城王太郎を読んで思う感覚にすごくちかい構造だと思った。