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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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5月中頃の日記 その2

プロフェッショナルで真鍋大度の特集をみた。かれはプログラミングとアートをコラボしてがんばってるひとで、おもしろかったのはダンサーとヘリコプターの両者の動きをひとつの作品にしようとする試みだった。ヘリコプターを数値制御をするとその動きは直線的で幾何学的、つまるところの無機質な動きにならざるを得ず、人間の踊る曲線的で生体的?有機的な動きとのミスマッチが生じる。真鍋さんはそれを、ヘリに人間の動きを学習させることによって克服しようとした。具体的には音楽に合わせて手でダンサーたちにヘリを動かし、軌道のデータを収集し、そのデータでヘリを動かす。既存の人間の動きをヘリの軌道へと転写するというアナログな解決だった。

こういうものを見ると、生体的である、ということはどういうことなのだろうとぼくは考えてしまう。生体的、ここでいう曲線的な動き、あるいは初等的な関数では表現できない軌跡の運動とはいかにしてつくられるのか。けっきょく、軌跡というものはあるなんらかの関数によって示されるのだから、初等的な関数だとか複雑な関数だとかそういうことをとっぱらって、生体という関数があるのだろう。関数の複雑さはそのあとにやってくる。複雑さだろうか?生体という関数は、いまのところ人間の理解に耐えうる形で見つかっていない、ということだろうか?  いずれにせよ、いまのところ生体というものの解析解をぼくらは持たないから、近似的に生体を模倣しようとし、模倣という意識があるからこそ近似的であらざるをえない。

生体を関数と見る、という解釈を続けるならば、その近似解は無限級数展開として表現されるだろう。そしてそれの各々の項は単純な関数としてある。秩序構造をパイを何度もこねるよう機械的にそれ自体を更新していくことで無秩序構造が作られるように、無数の単純な動きを足し合わせていくことによって複雑な生体なる関数を模倣する。いや、このいいかたはイマイチしっくりこないけれども、しかし飲み込んで先に進んで、その単純なもの、非生体的なものの無限の重なりは数学的極限であっても生体と呼びうるものであれるのか、という大前提への疑問がどうしても現れてしまう。生体は、要素によって構築されるものなのか、それともそれじたいが分割不能な一要素でしかないのか。