カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


語り手と世界/ヴァージニア・ウルフ、ウィリアム・フォークナー、ガルシア=マルケス、トマス・ピンチョンの小説たち

 

灯台へ (岩波文庫)

灯台へ (岩波文庫)

 

 

 

アブサロム、アブサロム!(上) (岩波文庫)

アブサロム、アブサロム!(上) (岩波文庫)

 

 

 

アブサロム、アブサロム!(下) (岩波文庫)

アブサロム、アブサロム!(下) (岩波文庫)

 

 

 

族長の秋 他6篇

族長の秋 他6篇

 

 

 

重力の虹〈1〉 (文学の冒険シリーズ)

重力の虹〈1〉 (文学の冒険シリーズ)

 
重力の虹〈2〉 (文学の冒険)

重力の虹〈2〉 (文学の冒険)

 

 

  

 ちいさいころ、たとえば八歳のぼくだったならば、八歳のぼくへ語りかけるおかあさんは違う時間で八歳として生きているのだとおもっていた。すべての生まれたものたちは、とりうるすべての時間と空間を見渡せる偉いひとがいたなら、そのひとからみて、みんな同時に意識がはじまる、そういうありかたが当たり前なのだと、ちいさいころのぼくはそう信じていた。だからこそぼくはぼくでないひとに話しかけられたとき、とりわけおかあさんに怒られたり、友だちとケンカしたとき、目の前のひとが何者なのか全然わからなくなることがあった。ぼくは未来のひとや、過去のひとをみている、この時間のひとじゃないひとを怖がったり嫌がったりしている、と感じていた。

歳をとるにつれ、ぼくの生きる時間や空間にぼく以外のひとが、それぞれのリアルを持ち、それぞれのぼくの知らない履歴をもって生きているということを理解できるようになった。しかし、同時にまた違った疑問が浮かんだ。ぼくの生きる時間や空間に生きるひとたちが見ている時間や空間は、はたして、ぼくが眼差しを向ける時間や空間と同一のものを見て、なにかをおもったり感じたりしているのだろうか、と。もしも宇宙が無限の広さを持ち、その宇宙に存在するすべてのものたちが取りうるすべての状態をその宇宙のなかですべて実現しているのだとしたら、ぼくが眼差しを向ける世界と同じ世界は、ぼくの存在する地点から10の10の118乗乗メートル遠くで存在している、といつか偉い数学者だか物理学者だかはいった。家に帰れば半径5メートル以内にはいる妻の見ている世界ですら、10の10の118乗乗メートル彼方の、はるか遠方にある世界かもしれなくて、それは人間が人間である限り、生き物が生き物である限り、決して知ることはできず、たとえ死者が死者として死後の世界を生きたとしても知ることはないような気がする。

意識の数だけ世界は多数存在し、さらにその意識のなかに存在できた多数の意識によって、世界の数はそれこそ無制限に増殖する。意識の流れ、と呼ばれる文学技法を駆使した小説たちは、三人称や一人称複数という無限に広大な宇宙に等しい場のなかに存在する多数の他者が、互いに視線を交換し、それぞれのちいさな世界のあいだにパスを通し、一個人では決して認識しえない「全能のわたし」が見る巨大な世界を構築することを使命として存在しているように思える。いや、意識の流れ、というテクニカルタームをここで使うのはきっとよくない。矮小な、どうしようもない一個人であるわたしである限り、あまりにも巨大で連なりを見出せない星々をいかにつなぐか、そもそも、個々の眼球によりありかたを変え、ときには相反さえしうる世界たちにつらなりを見出せるかもわからないのだけれど、それができたとして、認識しえた星座は、世界は、そういうかたちが示されたうえで再度ひとの可能な認知を再考したならば、個人の所有がゆるされるものなのか――そういう新たな問いを生み出すものであったのかもしれない、といまぼくは思うのだ。

 

 

……(略)だけど僕たちはその千分の一は救うんだ。神様なら、すべての雀に目をかけるかもしれないが、僕たちは神様のふりをするつもりはないからね。だって、恐らく僕たちは神様なんかになりたいとも思わないだろう、なぜって、誰しもその雀たちのうちの一羽しか欲しくないだろうからだ。それに、もし神様が、君が今夜見たような、ああいう建物の一つを覗いたら、僕たちなんか一人だって神様にしたいとは思わないだろうよ、だって神様はもう年寄りなんだからね。神様だって昔は若かったに違いないし、確かに昔は若かったさ、それに、神様みたいに長いあいだ生きていて、神様がいやでもご覧になってきたような、優しさも遠慮も品位もない、粗雑な乱交の罪をたくさん見てきた者だったら、たとえそういう場合が万に一つもなくとも、君たちアングロ・サクソンが肉欲と呼び続け、それを満足させるために、安息日になると原始時代の洞窟へ戻っていく、あの完全に正常な人間本能に当てがっている名誉とか品位とか優しさなどの原理について、いつかはじっくり考え直さなければならないだろうし、君たちがいわゆる神の恩恵からの失墜を、神様に挑戦するような情状酌量や説明を口にして曖昧に誤魔化そうとしようが、あるいは、辱しめや折檻はもうたくさんです、と神様を懐柔するような叫び声をあげて、その恩恵の回復をはかろうとしようが、神様はそのいずれにもーー挑戦にも懐柔にもーーもはや関心を示されないし、それが二度、三度と繰り返されると、もう顔を背けようとさえされないだろうからね。……
ウィリアム・フォークナー,「アブサロム、アブサロム!」

 

一つの瓶に二種類の水を注ぎ込むように、自分の憧れの対象と分かちがたく一つに溶け合うには、どうすればよいのか? それができるのは肉体か、あるいは頭の複雑な回路を絡み合わせる精神か、それとも心か? よく言われるように、愛し合いさえいれば、わたしと夫人は一つになれるのか? というのもわたしが望むのは、知識を得ることではなく一体になること、碑文であれ何であれ文字で書き表されうるものではなく、それこそが本当の知識であるはずの、言葉にならぬ親密感に他ならないのだから、と彼女は夫人の膝に頭をもたれさせながら考えた。

そして彼女は、子ども部屋のドアに手をかけながら、感情が引き起こす他の人たちとの気持ちの交流をひしひしと感じていた。まるで意識の仕切り壁がとても薄くなり、事実上(それはほっとするような幸福感となったが)すべてが一つの大きな流れに溶け込んでいき、たとえば椅子もテーブルも、夫人のものでありつつ彼らのものでもあり、あるいはもはや誰のものでもないような気がした。ポールとミンタは、わたしが死んだ後も、きっとこの流れを引き継いでくれることだろう。

ヴァージニア・ウルフ,「灯台へ」

 

「われわれは条件づけられた反射の部分的、あるいは完全な消去について語るだけでなく、消去は反射をゼロにすることを越えて進行することがあることを認識しなければならない。それゆえ反射の大小とか、反射が見られないとかいうだけで消去の程度を判断することはできない。というのもゼロを越えた沈黙する消去が存在するかもしれないからだ。」

〈戦争〉は広漠としていて、超然としている……その場にないのだ。おそらく〈戦争〉は意識するものですらないーー実際、生命ですらない。ただ何か残酷で偶然にも生命に似たところがあるだけなのかもしれない。

トマス・ピンチョン,「重力の虹」

 

 

もしかしたら1日と10年に大きなちがいなどないかもしれず、ぼくらが抽象と呼ぶものが、ぼくら以上に具体的なありかたをしているのかもしれない、と最近はよく考える。 認識により世界が生じ、その世界で生とみなされるならば、それが一般に生き物だとか知性だとかみなされやしないものですら、生き物であり知性体とみなされるだろう、すくなくとも、ある「全能のわたし」が絶対的に肯定される世界においては。