カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


理系+に書評を書きました/リチャード・パワーズ 「ガラテイア2.2」

 

ガラテイア2.2

ガラテイア2.2

 

 

 

 こちらから読めます。

 
 
ガラテイアについて、たくさん書きたくなったけど、それをぼくでないひとにも読めることばで書かなければならないような気が、すごくでてきた。わからないけど、書かずには…!みたいな感じ。
 
 
ぼくはひとの営みを書くための他者のために書かれたことばがすごくきらいで、こういう文章はできるだけ書きたくないと、たとえばさくっと読めるエンタメ小説やビジネス書やいわゆるバズるブログ記事とか、そういうものを読んだりするのがとてもいやだった。でも論文や科学系読み物、一部の書評はなぜか読めたのはけっこう個人的な不思議で、それは書かれたものたちの正しさを人間が所有できない、という点にあるかもしれない。
 
いまの仕事でとてもいやだな、とおもうのは、全ての正しさをお客さんが所有しているという点にあるようにおもえる。個人の満足こそが絶対的に正しくて、世の中の動き、統計的な傾向、提案・選択の適切さというものは、正しさへのアプローチのひとつでしかなく、いやむしろ正しさと無関係な場合だってたくさんある。それを「この仕事に答えはない」といろんなひとはいうけれど、ひとの営みを自然科学ととらえるなら、いまのぼくの仕事にもなんらかの答えはあって、ただそれを人間は知ることができないだけ、とおもう。ぼくはそれを知りたいな、とおもうからすごく苦しい。でもそれはある意味でおもしろい問題だとも、たまにおもう。でもだいたいしんどい。
 
ぼくが今回、ぼく自身の本来のことばから少し離れたことばで書評を書こうとおもったのは、単純にいまの感じでしか文章を書かないなら、書けないなら、たぶん生きていけないな、とおもったからだった。ぼくでない、けれど人間であるだれかが所有する正しさに向かうことばを使えないといけない、という危機感というか強迫観念というか、そういうものがある。このブログでは今まで通りのことばを使って書きたいとはおもうけど、しかしぼくでないひとが読むにたえる文章を、これからつくっていって、新しいことを考えられるようにならないとなあ、なんてすごくおもう。