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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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多数に等価な「私」――AMEBIC(金原ひとみ)

読書

 

AMEBIC (集英社文庫 か 44-3)

AMEBIC (集英社文庫 か 44-3)

 

 

 

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

 

 

 

 地下鉄を出る階段をのぼってものぼっても、いっこうに地上に出ないとおもったら歩いてなかった。そのときぼくはびっくりしたけれど、はじめての経験じゃないことはじゅうぶん知っていたから、こういう経験を自覚した回数のすくなさに気がついてびっくりしたのかもしれない。毎日の瞬間瞬間に起こるできごとのなんてすべてを憶えていられなくて、じっさいには起こったのに起こらなかったに等しいと判断されたものごとが、どれだけ多くあるのかとおもう。仕事をして、あー今日はなんだかたくさん仕事をしたな、ってデスクの目立つところに張っておいたToDoリストを見ても、たったこれだけの仕事をこなすのに、ほんとうに8時間ないし9時間の時間が必要だったかすごく不思議になる。もっとできたような気がするし、サボった、という気もしない。だけど日中なにに忙しかったのか、具体的におもいだせない。一日のほとんどが、地下鉄の階段をのぼっているとおもって突っ立っていたのかもしれない、といえばいい過ぎだけれども、それとほとんどおなじようなことが、一日のなかでたくさん起こっては、「私」に忘れ去られてしまう気がした。

 

 金原ひとみAMEBICを、たとえば、

 

 「自動筆記を用いて深層的な「私」と理性的な「私」を対立・融合させた実験的作品」

 

 などと紹介することは、考えられる読書のうちでもっともつまらないものになるだろう。作中では、物書きの主人公の私は、「私」がいつのまにか書いていた意味の通らない文章をおもしろがったり気味悪がったりする。この意味の通らない文章たちを彼女は「錯文」と呼び、錯文を読む「私」はAMEBICと名付けたフォルダに錯文をストックし、錯文や、じぶんの身辺に起こるできごとを理性的にとらえ認知する、いや、というよりも理性的な思考・認知を促すことで、自分自身をなんとか保とうとしているような気がする。

「正気の私」と「正気でない私」という二者が互いにひとつしかない私の体を取り合っている、とか、大雑排にアイデンティティのうんぬんの話、とかそういうことをいえなくもないけれども、もしそういう読み方をするならば、この小説をあえて読む必要はないな、とぼくはおもった。彼女が錯文と呼ぶものは、小説の手法的なことばを使えばたしかに自動筆記と呼ばれるものに類するだろうし、そういう書き方をしたひとといえば、ブルトンになる。

 ブルトン「溶ける魚」という作品において、小説の構造を用意せず、そして文法的な正しささえも度外視して一定の長さの散文をおもいつくままに書き連ねる、ということをして、それがいわゆる自動筆記と呼ばれている。それによって理性の審査を経ることなく「深層的な思想・情景」を描きだすという主張をし、それがいわゆるシュールレアリズムのはじまりだった。日本語では「超現実」という風に訳されるけれども、「理性的な現実を超えた現実」、を意味するのか、「どこまでも現実である現実」を意味するのか、ちょっとわからない。知っているひとがいたら教えてほしい。ぼくは後者だとおもう。なによりも正しい現実、という強度でなければ表現として目指す価値がないような気がする。

 

 ただ、自動筆記により発掘された「私」を「一番正しい私」として捕えるのはあまりにも安易すぎる。「正気な私」は「錯文の私」を自分自身というよりもむしろ、他者としてとらえているような感触がある。そして、「私」はタクシーに乗ると嘘を着くのだ。担当編集者で肉体関係を持っている「彼」の婚約者「彼女」のフリをする。「彼女」はパティシエで、12月に結婚する。「私」は「彼」の婚約者はない。「私」の嘘は、見抜かれることなく、タクシーの運転手にだけ語られる

 

暗い車内に、私の嘘が飛んでいる。それは蝿のように飛び回り、うるさく、汚く、邪魔だけれど、私も運転手も、窓から追い出す事はしない。それは蝿なんかよりどうでもいいものであるからだ。私の嘘は、誰にも暴かれる事がない。暴かれる事のない嘘が、少しだけ可哀想に思えた。それは、自分が可哀想に思えた、という事とはまた別である。いつだか彼が言っていた嘘を思い出した。私を殺し換気扇に入れたという嘘を。彼の嘘は可哀想ではない。彼の嘘は、愉快だ。ただただ愉快なだけだ。私もいつかあんな嘘を、つけるようになりたい。

金原ひとみ,「AMEBIC」

 

  決して発見されることのない・なかった「私」を、「私」は発見する。そしてその発見は、ひたすらな「私」の増殖を喚起する、あるいは、これまで「正気の私」によって語られた「過去の私」や、「好きだったり嫌いだったりする私でないもの」まですべて、「正気な私」と等価なありかたをしているように読めた。「正気な私」は「あらゆるすべての私」をメタ的位置から観察する「全能の私」ではなかった。「ほかのすべての私と全く等価な私」でしかない、だからこそ、「私」は「彼女」と会話をする。等価であるからこそ、会話が可能なのだと、ぼくはおもう。すべての私が狂気の生みだした妄想でもなんでもなく、ただの、どこまでも現実である現実だ。じっさい、「すべての私」や「私でないもの」は私の身体に発生してしまったのだ。