カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


結婚一年の避妊法

 

8月8日発売の週刊読書人に、ぼくの短い文章を掲載していただいています。

 

 じぶんの書いたものが何らかの媒体に掲載されるというのははじめてのことで、素朴にとてもうれしいことでした。お読みいただければ幸いです。

 

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法王庁の避妊法

法王庁の避妊法

 

 

 

 8月8日は結婚記念日だった。

 一年前、ほんとうは神戸で婚姻届を出そうかとおもっていたけれど、まだ妻じゃなかった妻が戸籍謄本を取り忘れていたし、証人の署名も頼めてなかったし、もろもろの準備不足があったため、妻の実家がある滋賀県の田舎にいった。妻の実家の近所に住んでいる親戚のおじさんとおばさんに証人になってもらい役場に提出すると、話に聞いていた以上にあっけなくぼくらは夫婦になった。妻の苗字が変わったけれど、いまでも職場では旧姓をつかっているらしい。ぼくの本名の苗字はちょっと変わっているし、姓名判断的にも良くないから、ぼくはちいさい頃から妻の旧姓のような、ありふれた苗字に憧れていた。そんなことを、きのう、ふたりでちょっと高めの近所の和食屋さんでおもいだしたけれど、そういう話はしなかった。付き合って9年になった。

 

 記念日、というものへの認識が、すくなくともぼくの方は薄くて、付き合い始めた日とか正式にプロポーズした日とかもなく、お互いの誕生日やクリスマスをいちおうそれらしく扱おうとはしたけれども、結局のところお互い(主にぼくが)それをできていないのは、たとえぼくや妻の生まれた日が一日遅かろうが早かろうが互いの人生の全体に特に大きな影響がなかっただろう確信がなんとなくあるし、ぼくや妻が生まれなくてもクリスマスは変わらずにクリスマスだからなのかもしれない。結婚、となってぼんやり浮かんだのはそれまで曖昧にあるんだろうな、とおもっていた始まりが、はっきりこの日なんですよ、というふうに突き付けられた(!?)という驚きとか緊張とか、よくわからないけど背筋を正さなくちゃいけないようななにかだった。だから一周年で、なにかしなくちゃなーとはぼんやりおもっていた。けれども、9年も付き合っていれば、プレゼントする、みたいな一般的に推奨されている行為はもう疲れてしまったし、よくよく考えれば太陽の周りを地球が一周しただけでしかないし、ぼくらが生きようが死のうが、当分の間は地球は太陽を回り続けるのだから、あえてなにかをプレゼントすること、あえてふたりのためになにかを買うこと、はなんだかどうでもいい気がした。ひたすら面倒くさいな、とおもった。9年前とおなじような毎日がこれからも続けばいいなとおもうし、毎日がなんでもない日であって欲しいとぼくはおもう。こんなことをここで書くと、バレたら怒られるかもしれない。

 

 きょうは雨がすごく降っている午前中、台風はこれからもっと近づくからもっともっと午後は雨が降るんだろうなとおもって、豪雨のなか、図書館に返しにいかないといけない本を返しにいった。本を返し終わると、ふと9年前の妻じゃなかった妻が、冬至所属していたサークルでつくっていた大学の学生雑誌に紹介していた戯曲法王庁の避妊法」を思い出して、ついでに借りてくることにした。彼女は高校生のころ演劇部で、たぶんそのときに演技したものだった気がする。図書館を出るとき、図書館に来たときと雨の強さは変わらなかった。帰ってきてから妻に、

「これ懐かしくない?」

 って聞いたら、

「あー」
 といっていた。大学1回生のとき、じぶんがどういう紹介を紙面でしたのかもよく憶えていないようだった。

 

 妻の演技を、一度だけ見たことがある。

 大学の最初の1年だけ、妻は小さな演劇サークルに所属していて、その公演を見にいった。出演者がふたりだけの、長いコントのようなコメディっぽいお話だったとおもう。見ているとき、ぼくはひたすら見ている時間を長く感じたし、親しいひとが親しいひとでない気持ち悪さがすごく苦痛だったのを憶えている。なんというか、映画館に行って映画が始まると大声で叫びたくなるアレを、100倍増幅させたような感じ。決して下手とかそういうわけじゃなかったけれども、よくわからない居心地の悪さがあって、以来、彼女の劇は見に行かないようにしようと思っていたら、彼女は劇団から足が離れて行ったみたいで、1年もすればその劇団じたいもなくなってしまったようだった。いまでは、そんな出来事すらなかった気がするくらい、ほかのこまごまとした出来事のなかに埋もれてしまっている。これを書きながら思い出したぐらいだ。

 ぼくは小説を妻に読んで欲しくない、妻はぼくの小説を読みたくない、そういう姿勢を互いに崩さない。なんかイヤ、みたいな感覚だけは互いに共有しているようで、しかし妻がぼくの小説を読みたくない理由は、ぼくが妻の劇を見たくないのとは全然違って、単にダルいだけなのかもしれない。

 きのう、家に帰ってくると週刊読書人の見本誌が届いていた。

 新聞を持って、

「ほらほら、ここにぼくのがのってるよー」

 というと、3秒ほどじっと見たあと、

「写真だっさ」

 とだけ、彼女はいった。