カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

発売翌日の2017年5月29日現在Amazonランキング「日本文学」部門で第3位!

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


台風、京都、おもいで

 台風で定期があるJRは30分待っても来なくて、仕方なくほとんど遅れてない阪急にのって梅田に行き、そこから地下鉄で淀屋橋にいって京阪にのり、叡山電鉄に乗り換えて一乗寺までいった。2時間半くらいかかった。台風と一緒に北上したようなものだったから一乗寺についたら神戸を出たときかそれ以上の大雨で、視界は白くて、このあたりで生活していた頃のあれこれを思いだす余裕なんてないまま恵文社を目指した。恵文社は知っているころと形が変わっていた。海外文学を買いあさっていたときの本棚は変わらず、変わっていたのはよくプレゼントを買った区画で、中庭があったりしてびっくりした。

 森田真生さんの「数学ブックトーク」をたくさん聞いた。楽しかった。

 イベントが終わったころには雨はすっかりやんでいて、そのころになってはじめて一乗寺に来たような気がして、すこしまわりを歩いたり、むかし住んでた松ヶ崎の家のあたりを見たりし、それから叡山電鉄に乗らず、研究室が吉田にあったころ毎日自転車で通った道を徒歩でなぞった。茶色かった建物は真っ黒な新しい四角形になっていて、むかし住んでいた部屋は知らない色の電気で光って、友だちがバイトをしていたサンクスはローソンになっていて、いつも右手に見ていた団地はずっと濃くなっていて、7年ほど住んでいた、生活していたこの土地にぼくは帰ってきたわけじゃなかった。歩数の数だけ、なんとない疎外を感じた。実家のある淡路島でも、田んぼをかわして大きなUを描いていた道が、半年前には色あせた灰色のその内側を外に抉り出され、真新しい黒く太い道が田んぼをふたつに切り裂いて伸び、5分に1回、乗用車や軽トラがそのうえをスピードを落とさずにはしっていた。中学生のころ、ひとりでぼんやりしていたぼく以外のひとが来ているところを見たことがなかった忘れ物みたいな空き地には大きな砂利の山が積まれていた。帰りの京阪電車に乗りながら、けっきょくぼくが知っているものが正しかったりすることはいつかなくなってしまうし、ぼくだけが知らないものなど、どこにもないような気がした。

 研究をしていたとき、世界でじぶんだけしか知らないものを見つけなさい、と先生にいわれたことがある。先生はその会話をそのひとことだけで終わらしたし、ぼくも、はい、と答えただけだった。その、世界でじぶんだけしか知らないもの、は、時間や場所によってあり方を変えてしまうのだったら、それは幻覚や想像の意味をなさない断片と区別がつかないだろう。19世紀終わり、20世紀はじめの数学者たちが、じぶんたちが奮闘している場が実は存在しないかもしれないと恐れたのは、そもそも数というものの存在じたいを疑ったことにはじまった、と今日のイベントで森田さんはいった。数学者の手のひらから逃れた数がみずからが身を置く数学という場の証明をしなければならない。それは人間が宇宙そのものの存在を証明するような行為だとぼくはおもった。ヒルベルトはいう。それをうたがってはならない。

 ぼくのなかで、科学者として一番先に思い浮かぶのはボルツマンで、かれが統計力学というひとつの学問分野を見出したとき、まだ科学者たちは原子の実在をきちんと肯定できてなかった。原子の存在を大前提にしたかれの研究は、マッハをはじめとする一部の有名な科学者たちに受け入れられなかった。議論はながく、激しく続き、疲れきったかれは自殺した。そのほんの数年後、アインシュタインブラウン運動の論文を発表する。

 個人の印象、認識が個人のものである以上、それは(漠としたことばだけれど)「価値」と呼ぶことはできないのだろう。ぼくのなかに蓄積された記憶は、時間とともに現在との折り合いがつかなくなるし、むかしはこうだった、といったところでそれを信じようが信じまいが、だれかがなにかをおもうことはなく、一晩ほど経てばすっかりきれいに忘れられてしまう。そういったものと無縁な、いわゆる普遍性が科学の根幹にあって、しかしそれを一個人の体験に落とし込んだとき、あったかもわからないような輪郭のぼやけた記憶を、絶対的な存在としてつなぎとめるもの、そういう価値付けをしうる力強さはなんだろうっておもう。価値がなければ、必要は生じない。それをここ数年で嫌というほど思い知った。

 

 暗くなると、電車からは街の光しか見えなくて、その光から街の違いを区別できるほど、ぼくは多くの街を知らなかった。

 

 

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