カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

発売翌日の2017年5月29日現在Amazonランキング「日本文学」部門で第3位!

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


違いを問うこと


やし酒飲み (岩波文庫)

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複製された男 (ポルトガル文学叢書)

複製された男 (ポルトガル文学叢書)


朝起きて、妻は仕事でぼくは休みだった。8時まで寝て、それからカート・ヴォネガットの短編を読んで、最初の「死圏」がとてもよかった。

彼は未来の世界を想像していたーー霊魂とつねに接触を保っている世界、生者と死者が分かちがたく結ばれた世界を。それはすでに予定された未来なのだ。宇宙を探索する過程で、いつかは誰かが見つけだすだろう。それは人生を天国に変えるだろうか、地獄に変えるだろうか?ろくでなしと天才、犯罪者と英雄、普通人と狂人、かつて生きたすべての人間が、この瞬間から永遠に人類の一部となりーー忠告し、なぐさめ、共謀し、口論し続ける……


カート・ヴォネガット,「死圏」


宇宙がひとつの閉じた系なら、死んだひとは死んでもその外にでられず、死者が死者としてもなお意識を持つなら、それはきっと生者と区別がつかない。ある島国のひとたちは、死んだひとはとなりの島で別のひととして生きていると信じたし、エイモス・チュツオーラの「やし酒飲み」の主人公は、死んだひとを探しに旅に出た。ここでない場所にいた死者は、ここでない場所へ移動する、しかし、かれらはどこかにいる。

天王寺にいったのに、美術館がしまっていてすることがなかった。なんとなく映画を見たくなって、調べたらジョゼ・サラマーゴ原作の「複製された男」の映画がもうすぐ公開終了だとしって急いでみにいった。映画は全然原作とちがった。いいところはとてもよくて、悪いところはひたすら悪い映画で、たとえば、サラマーゴと違った静かで倦怠感のある重さの雰囲気がすごい好きだな、とおもったけれど、しかし90分という短さもあるだろうけど、ずいぶんと内容が薄っぺらく、原作にない印象的な蜘蛛の描写になんらかのメタファを持たせているつもりだろうけど、それが制作側の稚拙な自意識でしかないと感じられて残念だった。
複製された男、はタイトルの通り、私がふたりおなじ街に存在してしまった話だ。身体的な特徴の何もがが一致し、そのことを知ったふたりは互いに恐怖する。ただ、身体そのものはまったく同じでも、表面にあらわれる性格は正反対だ。ぼくはよくおもう、すべておなじ分子組成により構築されたふたりが、おなじ環境に身をおいたならば、かれらの一生は決定論的に、ただひとつのものとして決まるのだろうかと。同時にまた、すべての交差点をおなじ曲がり方をするなんてじぶんでもできないということにもすごくおどろく。
ある意味、複製された男のような設定は、そんな思考実験にちかいものかもしれない。分子組成がおなじふたつの肉体を、異なるシステムに配置し、それらの時間発展をシミュレートする。そしてある時点において、互いに孤立していた両者のシステムを接続する。そうしたとき、わたしとわたしでないものの区別は可能なのか。でもそれって、死者と生者の違いを問うのとおなじな気がする、