カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


研究でも批評でもなく、「ボルヘスを読む」、ということ

 

無限の言語―初期評論集 (ボルヘス・コレクション)
 

 


 今年数えで86になる祖母が雇ってもらっていたKさんの農業会社をクビになったようで、いわく、会社に機械を導入したために人手がそこまで必要なくなったとのことだった。200年遅れの産業革命の息吹と、来るべきラッダイドの潮騒を感じた。

 実家に帰ると、神戸の家にあるぼくと嫁の本を屋根裏の書庫を片付けたり、聴きもしないラジオで甲子園の実況をながしながら実家の農業をほんのすこしだけ手伝ったり、ねむったり、ごはんをたべたり、1日1回お風呂にはいったりする。屋根裏の書庫は広く、まだまだスペースがあるから、どうやってこれから使っていこうかを考えるのが妻は好きらしく、帰省すると必ずホームセンターに寄って、カラーボックス(三段)をふたつ買い、屋根裏でせっせとこしらえる。そのあいだ、ぼくは実家においてある本をじぶんの部屋で読んでいて、屋根裏の作業がひと段落した妻は、なあなあ、とぼくを呼ぶと、じぶんの収納テクニックのとりわけ秀でたところをぼくに説明してくれる。

 

 

 本を整理していたら、ボルヘスの「無限の言語」を見つけた。ぼくはボルヘスがなんとなく好きだけど、しかしいままで、ぼくはボルヘスについて何かをしゃっべったりしてはいけないような気がしていた。それはすごく単純な理由で、ボルヘスをすごく好きなひとはぼくなんかよりもずっと好きで、ボルヘスにすごく詳しいひとはぼくなんかよりもずっと詳しいからだった。

 しかし、いまになってボルヘスを読みながらおもうことは、専門性の高い事柄にたいして、研究者としてでも批評家としてでもなく、ただの読者として接することができるか、ということだ。学術性の高いものに対し、研究者でもなく批評家でもない人間が、なにかを感じたりおもったりすることは間違いなくある、しかし、そういったひとたちが感じたりおもったりしたことをことばにする行為をなんと呼べばいいのか、ぼくにはわからない。すこし前、とある文学を研究するひとたちとお話する機会をいただいたとき、

「対象によってみずからの振る舞いを、研究、であるか、批評、であるかを変える」

 ということをきいた。文学を研究しないひとたちは、対象によってみずからどんな振る舞いすべきか。すべき、ということばはよくないだろう、そういう発想であるなら、かれら(ぼくら)はどうしようもないstrangerでしかない。そうであってほしくない。だから読者が読者としてボルヘスを読める、ということ、可能性は、個人が個人として本を読めるという意味においてとても尊いことだとぼくはおもう。

 

 

天国はいくつでもあるが、幸福はいたるところで不在であり、その予兆も予感もない。文学は私たちの生に関する基本的なことばはすでに発していて、文法をこねくりまわしたり隠喩をいじったりすることにしか革新の道はない、というようなことがしばしば言外に言われている。私はあえて反対のことを主張したいーー瑣末な細工はあり余るほと行われているが、永遠なるものの有効な提示こそが欠けているのた、と。幸福の、死の、友情の提示こそが。

 

J. L. ボルヘス,「幸福を書くこと」

 

「無限の言語」のなかで、「幸福を書くこと」という文章がある。

 ボルヘスはこの文章のなかで、文学や(天国を作ることを商売とする)宗教は、幸福、というものを現在形で書くことができていないと主張する。それらで書かれている幸福の多くは空間的・時間的に遠いところに位置づけられたものであり、今現在にあるものではなく、過去化されたものだという。ボルヘスの持った違和感は、おそらく今を生きて文章を読む/書く主体はいつも必ず現在にいるのに、その読む/書くされた文章が過去化されてしまっているというズレのような気がした。そのズレが生じてしまったならば、「読む/書く主体」と「読む/書くされた文章」とのあいだに有機的なつながりは存在しえない、とおもったのかもしれないとおもった。過去化された幸福は生者とのつながりを持ちえず、死のイメージと等価になる。幸福、という常に現在に存在せねばならないイメージであり、「幸福を書く」という行為は、今現在、そこに生じている幸福という具体的現象を提示することによってはじめてなされる。たぶんそんなことが書いてある。ボルヘスは例として、アルナルドス伯爵のロマンサという詩を全文引用し、さっき書いたようなことを説明していた。いってることは、ふんふん、とおもって読めたけど、引用された詩をそこまでおもしろいものとして読めなかった。ぼくは海外の詩の良い読者じゃなく、バイロンランボーもポーも、あんまりよくわからない。

 

 

 ぼくにとって、ボルヘスを読むことはひとつの幸福になるとおもう。

 ボルヘスの文章は、なんとなく過去のものという感じがしなくていままさに誰かが何かを考えている、そういう脳みその運動にじぶんが巻き込まれている、そういう感覚をかれの文章を読んでいるときには感じる。優れた文章は時の制裁を受けてなお生き残り、それまでの長い時間が文学としての普遍性を上等な酒のようにつくり上げる云々……をたまに聞くけれど、ぼくはそうはおもわない。ボルヘスはたしかに時の制裁を受け、あるいは未だその審査中で、とにかく生き残った文章ではあるけれども、文章そのものはたとえ何年経とうと形を変えることはない。普遍性は、時間によってつくられるものじゃなく、常に現在のものとしてあり続ける力強さだとおもう。すばらしいとされるものは、過去のものとしてでなく、現在のものとして語られ続けるのではないか、とぼくはなんとなくおもう。