カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

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変奏、あるいは幾度となく読み直されること/ヒメ―ネス,「プラテーロとわたし」

 

プラテーロとわたし (岩波文庫)

プラテーロとわたし (岩波文庫)

 

 

 

 

 

 ただ単にぼくがギターを弾いたりするのが好きなひとだからにすぎないのだけれども、「プラテーロとわたし」ときけば、著者であるヒメ―ネスよりも先に、20世紀の作曲家テデスコの名前が出てくる。けれどもマリオ・カステルウヌーヴォ=テデスコの名前をギターじゃない楽器をするひとから聞いたことはほとんど、というかまったくない。そのほか、アレクサンドル・タンスマンにしろ、マヌエル・マリア・ポンセにしろ、セゴビアと共に近代ギターの道をひらいたひとたちの名前を、ギター好き以外からきくことはないことをぼくはさびいしくおもうけれど、しかしぼくがテデスコの「プラテーロとわたし」をきくまで、ヒメ―ネスというスペインの詩人をしらなかった事実とまったくおなじなような気がする。そしてさっき、アランフェス協奏曲の作曲で有名なデ・ラ・マーサもまた、「プラテーロとわたし」をモチーフにしていた曲を作っていたということをしった。

 

「プラテーロとわたし 」は、ヒメ―ネスの若いころに書かれた138編にわたる一連の散文詩で、プラテーロと名付けられた驢馬とともに過ごす日常がそこには書かれている。

 

ほら、もうあそこに入っているよ、プラテーロ、黒いぴちぴちした燕がね。モンテマヨールの聖母の画像のそばにある。あの灰いろの巣のなかにだよ。だからあの巣はいつでも大事にされているのさ。でもかわいそうに、燕はびっくりしているようだ。先週。午後二時の太陽が日食でかげったとき、鶏たちがかん違いして鶏小屋のなかへひっこんだのと同じように、こんどは気の毒なことに燕たちがどうもかん違いしているらしい。今年、春はいつもよりも早く、なまめかしい姿で起きあがったけれども、寒さにふるえながら、三月の曇り空のベッドのなかに、やわらかな裸の身をふったび横たえなければならなかった。オレンジ畑の、乙女のような薔薇の花たちが、つぼみのままでしおれてゆくのを見るのは、なんとつらいことか!

 

ヒメ―ネス,「プラテーロとわたし」より「燕」

 

「プラテーロとわたし」で書きだされるこういった日常の風景は、プラテーロに問いかけるという行為によって、いま、この瞬間に起こったものとして現在化されているとおもった。そしてこの現在化は、きのうぼくがボルヘスを読んでおもった、「幸福を書く」という行為そのものだとおもった。個人の知覚や情念は、その個人を離れた瞬間に時間の檻から逃れ、過去から解き放たれ、現在であろうとする意志を持つ気がする。そしてこの「プラテーロとわたし」は、さらに文章という枠組みを超え、音楽として読み直されることでさらに広域な「幸福化」が行われた。

 

 テデスコやデ・ラ・マーサにより音楽として読み直された「プラテーロとわたし」は、パフォーマンスとしてさらに演奏者に読み直された。上にあげたyoutubeの、「テデスコの「プラテーロとわたし」」は、ぼくがヒメ―ネスの「プラテーロとわたし」を読んだものとは違う、とぼくはいえる。これはもはや、原作の「幸福を書くという行為」では回収できないことで、音楽、または演奏にともなう「幸福を書くという行為」になる。際限ないメタ化により、そのいちばん奥にあるものが神格化されるということはなくて、もちろんすべての種となったという意味での偉大さはある、けれどもそれはそれから派生するすべての幸福を担保するものではないだろう。文章の幸福は文章が読まれたり書かれたりする瞬間にあって、音楽の幸福はそれが鑑賞されたり演奏されたりする瞬間にこそある。その瞬間瞬間において、派生したすべてのものはすべての違うありかたをする。それはひとつの「個性」の獲得になるのかは知らない。いえることはただ、それが一過性ものだということだ。

 表現方法に捕われることなく、「プラテーロとわたし」には郷愁のイメージが根底にある。そしてそのイメージは、どうしようもない過去であり、一過性のものでしかない。しかし、一過性のものがあらゆる形で何度も何度も現在化されることで、それは普遍にちかいものになりえているとおもう。ただ、それが普遍である、ということをいまのぼくはいいきれない。ひとが文章を読み、書き、音楽を聴き、奏で続けることによって担保されるだろう。それは人間の営みは、人間の営みであるがゆえ、絶対的な普遍性を保証することはできない、というような気がして、それはすこしさびしい。