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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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ことばが言語に戻るとき

読書

太陽の石

太陽の石

  • 作者: オクタビオパス,阿波弓夫,伊藤昌輝,三好勝,田村徳章,松山彦蔵,後藤丞希
  • 出版社/メーカー: 文化科学高等研究院出版局
  • 発売日: 2014/04/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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弓と竪琴 (岩波文庫)

弓と竪琴 (岩波文庫)




きのうは友だちがふたり(宇野さん、蕪木くん)、東京からはるばる関西へやってくる2ヶ月か3ヶ月か前くらいから聞いていたその日で、約束の日というのはやってきてしまえば、まだかな、みたいな長さから、もうきた!みたいな短さに転移する。思い出すのはなんとなく救急車が通り過ぎる音、いわゆるドップラー効果。近づいてくるとき、音は次第に鋭く、高くなるけど、ぼくの横を通過した瞬間からその音は鈍く、低くなる。鋭いとか、鈍い、というのはただの主観的な印象で、物理現象としては音の高低しかないのだけれど、その鋭い、鈍いの感覚が何に従属するものなのかなど考えると、感傷的なものにどうしてもつながる。自然の、ひとつの現象をなんらかの暗喩ととらえようとすることは、くだらない、とおもっていた/いる、が、それは意識的になされる運動というよりは無意識的になされてしまう運動のような気がする。

オクタビオ・パス、というメキシコを生きた詩人のことが最近とても気になっている。かれの本を読むと、すごく頭がいいな、とおもった、同時に、これまでぼくがもんもんと考えていたひとつの仮説の、とても重要な位置にあるひとなんじゃないか、という確信があって、これから集中的に読む、ということにした。言語機能である意味と伝達は、言語が大前提に持つ「表象」の上に立つ、と「弓と竪琴」の最初の方に書いていた(この定義めいたものはほかのひとのことばの引用だった気がするけれども)。パスは、ことばのもつこの「表象」という大前提にじっと目をこらし、耳をすませ、詩作をおこなっていると感じた。「太陽の石」という詩を読むと、それがとても実感できる。パスのこの詩は、ひたすらな表象であふれていて、たとえばある対象AをそれではないA'で指し示す。僕と他者。瞬間と永遠。あらゆる風景。その矛盾めいた表象の氾濫により、世界のあらゆる事象を溶かしていく。
それはとても原始的な行いのような気がした。ことばによって区別・整理されたことがらを、ことばでもって解体していく。この行為じたいはダダ詩的なものに似ているけれど、しかしパスは単に構造というものへの嫌悪からそうしたわけじゃなく、ことばが人間に獲得されるまえの、広義での「言語」、への回帰を目指したようにおもえる。ぼくらの感覚器によってとらえられるすべてのものは、ぼくの救急車みたいに、表象、あるいはひとに対して想起を促す機能、を潜在的に持ち合わせている。そう考えれば、言語がことばというかたちでなければならない理由がまずなくなる。ことばを解体するのは、これまでずっと子どもが大人のつくった建物を壊したい衝動によってなされるとおもっていた、けれどもちがうとおもった、解体はかならずしも更新じゃなく、回帰を目指すもの、という側面でものを考えたことがなかった。なんだか急に詩を読むのがたのしくなった。

もっと詩を読めるようになりたいとおもった。だから詩を書こうとおもった。以前、書こうとがんばっても書けなかったことがあったり、書いたものが詩かもしれないけれど詩とよべる行為が、どういうものかわからなかった。詩を書く、ということはどういうことかわかる日なんてこないとおもう。だけど、すこしでも確信をもったことばを人間の手付かずの言語から引きずり出すような、そういう行為を営みと呼べるようには、わかりたい。