カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

発売翌日の2017年5月29日現在Amazonランキング「日本文学」部門で第3位!

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


大切なひとは人間なんかじゃない

お盆休みのあいだに体重が増えた。入社前の体重まで戻り、それに合わせて考え方まで入社前に戻っていたことに、きょう、働いていて気がついた。ぼくは大切なひとは大切だけど、しかし人間はきらいだ。人間の声をきくほど苦痛なことはない。会社のひと、仕事で話さなければならないひとの声をきくのはほとんど拷問にちかかった。だからぼくは安心して話せる大切なひとたちは人間じゃなくて、大切なひと、というちがう生き物なのだとおもう。

いつも不思議におもうことがある。ひとことふたこと誰かと話をすると、どうしてそのひとの嫌だなとおもうところは探さなくても感じてしまうのに、ひとのいいなとおもうところは探さないとわからないことがほとんどなのだろう。ひどくあたりまえのことをいえば、どんなひとでも完璧ってことはなくて、大なり小なりの欠点はどうしても持ち合わせているとはおもう。だからこそ
「欠点よりも長所を探せ。その能力が有能さだ」
ということばがあるのだろうとおもう。が、いつもそれが正しい気はしない。そもそも、無理矢理見つけ出した長所がなんになる?それは捏造された長所にすぎないし、無理してひとを好きになろうとすることは、ぼくにとってほんとうに苦痛だ。

お客さんを好きになれ、と仕事ではいわれる。成長しろ、努力して努力して達成した人間にだけ見える風景がある、と仕事でいわれる。

そういった紋切りにぼくはもう耐えられない。嫌いなひとを嫌いだとおもうことが、人間として正しくない、人間として稚拙だ、と咎められる、そういう強迫観念に疲れた。ひとの長所を見つけることはトレーニングでできるようになるらしく、それならそれは単なる技術でしかない。ほかもそうだ、仕事ができるできないも能力でしかないし、達成して見える風景なんて隣のビルにあるオフィスしかねぇよ。能力を「人間力」とか名付けることで、ひととしての価値なるものにすり替え、その価値を高めることこそ正しいとし、その向上を成長と呼びたがるのが気持ち悪い。1年前のじぶんが、現在のじぶんより劣っているとはぼくはおもわない。能力は能力でしかなく、その優劣で人間の価値が決まるならぼくは人間なんかじゃなくていい。だからぼくはぼくの大切なひとたちを人間だなんて呼びたくない。人間なんてことばは、モブにしかつかわない。

成長なんて牛乳飲んで10代でやってろ、などおもう。仕事できても身長なんて伸びねえよ。

そうおもったら楽になった。