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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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描写のちがいをぼんやり/アニメ「物語シリーズ」

アニメ


きのう、おととい、録画しておいた「花物語」をみた。西尾維新物語シリーズは好きだけど小説は一学期までしか読めてなくて、そして原作よりも先にアニメをみていたから、ぼくにとってはほとんどアニメだとの印象がつよい。そしてアニメのつくりはとても小説的で、小説のようなアニメだと、最初の、化物語をみたときにおもった。

小説的だ、とおもったのは、このアニメのつくりにある、というより、シャフトの作品ほとんどの特徴におもわれるのだけど、このアニメは動かない。決して紙芝居というわけではなく、かといってコストがちいさい、というわけでもないけれども、静止画を多用しているといった印象をもった。そして登場人物のセリフが、かなり小説的で、それは説明的であるというよりはほとんど描写的におもわれる。動きのすくない映像と、よどみなくなされる描写的口調の会話、一人語り方、そして会話のなされる客観的な時間をかえず、とても読めない速度で流される文章スライド。これらによって強調されるのは、映像の断片性ではなく、その狭間の行間だとかんじた。このアニメを特徴付けているのはそれだとおもう。それはもう小説における描写とほとんどかわりないとおもう。アニメを小説の言語で作り上げた、というのがこの「物語シリーズ」だ。

ただ、もちろん他のたくさんあるアニメたちがおこなってきたものが描写でないといいたいわけじゃない。ただそれは、物語シリーズで行われている小説的描写とは異なっているようにおもう。それはたぶんこの文脈では、アニメ的描写、と名付けるのがいいのだろう。じゃあアニメ的描写ってなんだろう、とおもいながら食べたお昼ご飯はとろろ蕎麦だった。320円だとおもって買ったら420円でびっくりした。

とろろ蕎麦を食べ終わったころ、その疑問はさらにちがうところまで広がった。マンガ的描写はなにか、紙芝居的描写はなにか。物語シリーズの違和感を考えるにはそうした媒体別の描写を考えたうえで、検討されるのが正当なやりかただろう。だけど、そうやったところで、それらの組み合わせとして物語シリーズのつくりを考えてしまっては、なんだかたのしくない気がする。

花物語はおもしろかった。