カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

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幸福はひとを生かしはしない/詩集「死んでしまう系のぼくらに」最果タヒ

 

死んでしまう系のぼくらに

死んでしまう系のぼくらに

 

   

かなしくはないけれどさみしい、という感情が、ひとの感情の中で

いちばん透明に近い色をしてるってことを、知っているのは機械

だけで、わたしは名前を入力しながらなんども肯定の言葉を抽出し

た。ゆめのなかで死んだひとが生きていることや、愛が実在してい

ること。都合のいい世界は破綻していつだってこわれていくことを、

音楽みたいにきいている。朝から夜までだれも迎えになどこない。

でんわがなると、そこに機械音が、きこえてくる世界で、わたしは

ともだちというものを探し歩いている

 

最果タヒ,「きえて」(死んでしまう系のぼくらに より)

 

 

 

 ことしになって、ずっと考えてしまっていることがある。ぼくは本を読まないままに生きていたら、いまあるほとんどの悩みを悩みとおもわずに日々を過ごせたのかもしれない、本を読まなければ、なにかに対して特別な興味を持ったりしなかったかもしれない、本を読まなければもっとたくさんのひとと何気なくコミュニケートできたかもしれない……たくさんの「かもしれない」はそれぞれ単なる水滴だったならば気にもとめなかった、だけど視界を濁らせるほどの霧になってしまって、霧を払う方法をぼくはしらない。

 

 最果タヒさんの詩集、「死んでしまう系のぼくらに」を買った。電車で読んでる。ネットでみたことある詩もあるけど、なんだか本って形で読んだとき、とてもはじめて読んだ感じがした。最果タヒは最果タヒということばなんだって気がする。生きててよかったレベルで読めてうれしい。だけど、ぼくは最果タヒさんの詩集を読むといつも、なんだか世界の境界線みたいなのが見えて、それはことばであろうとしたひとのことばであろうとする力によって越えていったものな気がする。ぼくはぼくのことを弱いっておもう。最果タヒさんみたいな強いありかたを望むけれど、できないじぶんが、かなしい。それは気分じゃなくて、実体のある現実だ。

 

言葉は、たいてい、情報を伝える為だけの道具に使われがちで、意味のない言葉の並び、もやもやしたものをもやもやしたまま、伝える言葉の並びに対して、人はとっつきにくさを覚えてしまう。情報としての言葉に慣れてしまえばしまうほど。けれど、たとえば赤い色に触発されて抽象的な絵を描く人がいるように、本当は、「りりらん」とかそんな無意味な言葉に触発されて、ふしぎな文章を書く人がいたっていい。言葉だって、絵の具と変わらない。ただの語感。ただの色彩。リンゴや信号の色を伝える為だけに赤色があるわけではないように、言葉も、情報を伝える為だけに存在するわけじゃない。

 

最果タヒ,「死んでしまう系のぼくらに」のあとがき

 

 最果タヒさんの詩やことばをとてもいいな、っておもうこと、共感することが、ぼく自身がぼく自身を必要としていない気がしてこわくなる。最果さんだけじゃなくて、ほかのたくさんのたいせつな文章を書くひとの文章をすばらしいとおもえばおもうほど、満たされながら居場所をなくしていく。幸福に溺死する感じに。ピンチョンの「V」.も、パワーズの「われらが歌う時」も、ウルフの「灯台へ」も、マルケスの「族長の秋」も、ぼくはそれがあるってしれたこと、それを全力で読めたこと、それに打ちひしがれたこと、それに対してとても幸福だとおもう、けれどもそうおもってしまったことによってぼくがいまさらなにを感じ、なにをおもおうとも、じぶんの不要さばかりを考えてしまう。それでも本を読みたいし、書くことはやめれない。すごくしあわせなことだとほんとうに感じる。だけど、幸福はひとを生かしてくれない、ということを知った。生きるために会社員になって、生きるためだけなら雇われることは楽だなってすごくおもった。もちろん不手際からひとに迷惑をかけている申し訳なさや、給料分の働きを満足にこなせていない現状、会話しなければならない苦痛は大きい。幸福でも不幸でもなく、生きた心地もしない。だれかに必要とされなくちゃ生きていけない世の中で、ぼくはぼくを必要としていないなっておもう。必要の連鎖のなかでしか生きられないとおもったけど、詩や小説を必要とおもって読むことは(文章を書くからないことはないけど)あまりない。必要の連鎖の外に立てる力を才能っていうのかもしれない。

 

 でもぼくは、才能、っていうことばはきらいだ。たぶん、どんなことばも、詩も、小説も、現象として世界にあるだけで、それが文字というかたちをとっているかいないか、という次元の重要さはあるけれども、たまたま運よく文字におこしてくれ、それをいいというひとがいて、それが人類のほろびるまで、記録や文学という呼び名で発見者の名前を添えられてのこったとしても、ただ発生してしまったものでしかない。良し悪しや、才能、といった称賛は人間の勝手な評価であり、絶対的にあってしまった、という強さの前ではあまりにもちっぽけだとおもう。

 最果タヒさんがじぶん自身が「ことばであろうとする」のは、そういう人為的な意味づけから、遠いところを世界と呼びたいからのような気がする。ただ存在しているだけ、ただのそれだけの強さを、まっすぐ信じている。