カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


あたらしいサイバーパンク/攻殻機動隊ARISE border:4 Ghost Stands Alone(工藤進監督)/現代日本の純文学

 

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

未明の闘争

未明の闘争

 

 

 

緑のさる

緑のさる

 

 

 

砂漠ダンス

砂漠ダンス

 

 

 

人間は肉体という機械と、魂のふたつに分けることができる、といったのはたしかデカルトで、だけどここでぼくはデカルトの話をしたいわけじゃない。攻殻機動隊で描かれる世界は義体というまさに機械の肉体と、ひとびとがゴーストと呼ぶ、おそらく魂とよびえるもののふたつによって人間がつくられている。機械化された肉体にはかわりなどいくらでもある、そこにみずからのゴーストをインストールすればそれはわたしなのだし、もっといえば、ソフトウェアとして起動される空間さえあれば、ゴーストは特定の肉体にインストールされている必要すらない。抽象化されたわたし、普遍であり不変であるわたし、だれにも干渉されないわたし、攻殻機動隊の登場人物たちはそのようなありかたを望み、みずからのゴーストの実在を信じる。

 
サイバーパンクといえば、ギブスンの「ニューロマンサー」やこの攻殻機動隊がその代表作になけれど、攻殻機動隊ではとくに肉体のある物理世界とはことなる、いわゆる電脳空間で個人が情報として存在し、他者が他者を書き換えたり、他者が他者をじぶんそのものとして認知したり、そういう情報と情報の接点でなされる演算により、わたしと他者が平均化され、わたしと他者が区別不能になる恐れが全面的に打ち出されている。そしてサイバーパンクぜんたいでいえば、ユニークな情報(=アイデンティティ、といってもよいかもしれない)が喪失し、あらゆる他者に共有されてしまっているという世界を示すことで、だれのものでもない意識としての「社会」をあぶりだそうという意志をかんじる。共有化された情報というのは、ぼくらが普段疑いすらしない「常識」とよんでいるものにほかやらない。
 
トマス・ピンチョンの「V.」「重力の虹」をサイバーパンクと読むという説があるらしく、ぼくはとてもそれに賛成で、はじめて読んだときからピンチョンはそうだとおもった。集団的パラノイア、というのは上述の「常識」とよんだものにひとしい。ピンチョンが凄まじいのは、このことをインターネットが実用化される半世紀も前に書いたということだ。ピンチョンは、集団のもつ、だれのものでもない意識の所有者についてひたすら考えたのような気がする。もっとも、ピンチョンがその発想にたどり着いたのはかれの膨大な知識・思考力を支える中核に、統計熱力学のセンスがあったからだとおもう。個のふるまいと全体のふるまい。両者を同時に思考しようとすると、個を語ることと全体を語ることがどこかで等価になる気がする。20世紀のサイバーパンクは、全体を語ること、すなわち社会を語ることに重きを置かれたという印象がある。
 
 
しかしインターネットが急速に普及することで、かつてのサイバーパンクをもう一度繰り返したとしても、その行為によって語られることは大きくことなるような気がする。インターネットの登場によって、サイバーパンク的な認知様式はごく日常的なものになったとぼくはおもう。
たとえば、学生時代のときなんか友だちと話していると、友だちはぼくにじぶんの考えを熱心に話しているけれど、 しかしそれは2ちゃんのまとめサイトでむかし読んだものとまったく一緒だった、みたいな、情報を入手するコストがものすごく低下したことによって、じぶんでないものの思考をじぶんの思考として他者に語ることがあまりにも頻繁におこるようになったような気がする。そして、そう自覚すると、ぼくがいま考えていることはぼくがほんとうに考えたオリジナルなのか、とても不安になることがある。攻殻機動隊ARISEでは(べつにアニメシリーズもそうだった気がするけど)「擬似記憶」を中心に据えた物語を展開することで、社会から個へ向かうサイバーパンクとなった気がする。
 
ここ数年、ほんとうに新しいサイバーパンクは、じつはSFじゃなくて、純文学で行われている気がしている。たとえば保坂和志「未明の闘争」や山下澄人「緑のさる」「砂漠ダンス」他のような、三人称を所有する一人称小説は、個人の記憶への意識の跳躍のみならず、記憶のなかのひとやひとでないものと意識を交錯させる。しかし、かれらの書くものは、多数のわたしでないものと触れ合うことで、「わたし」が消失するわけではなく、多数の他者が「わたし化」していく。かれらの小説は決して社会全体を描出しようとしているわけではなく、SFサイバーパンクで扱われなかった非常に小さな個人の生活に根ざしていて、語り手のstand alone が保証されているような安心のなかで語られる。これが21世紀のサイバーパンクだ!という気はないけれども、あきらかに思考されるべき事柄は変化しているのだとおもう。