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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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干乾びた胎児

創作小説

 

 

夜になると、彼らは夕食をとり、それから浜辺に出てパイプをふかすのだった。煙草の香りが魚たちにくしゃみを催させた。ロビンソン・クルーソーにとって、無人島の暮らしは楽しくはなかった。「ちょっとさびしすぎるな」と彼はいう。
                                         エリック・サティ

 

 

 

 一陣の風が吹き、砂が舞い上がった。砂は乾いた音を立てて人々を叩き、纏わりつく。即座に払いのける無数の手はなにも言わない、なにも語らない、あるものは湿って、あるものは乾いて、一様にしなやかな動きで砂を払いのけ、風が街を通り過ぎた頃、人々の肌に、手に、そして記憶にもはや砂の感触は残っていない。草臥れた肉体は飽きもせずに水を噴出し乾きの反復を繰り返してはもろくざらついた輪郭を得、深呼吸とともに時間は左から右へ澱みなく流れる。
 男は眼に入った砂粒のせいにして落涙した、一度零れた涙はとめどなく溢れた、痩せた頬に幾筋かの轍をつくった。むせび泣く男は嗚咽を噛み殺している。ポケットのなかを硬く黒ずんだ指でさぐり取り出して火をつけた煙草をろくに吸うこともできずに、たった一口ふかしただけであとは指の間で煙をのばし、地に灰をはらはらと降らすばかりだ。男は向かいのベンチに腰かけている若い女を見つめる。顔を、肌を、髪の毛の一本一本まで舐めまわすようにいやらしく視線を這わせることで安易な恍惚を生み出そうとした。女は男の悪意ある視線にまったく気がつかないまま、黄金色に染まった空を見上げ、半分口をあけ、アスファルトで覆われた地殻を爪先で叩いているがあまりにもかすかなその音は喧騒に埋没してしまって男の耳に届かない。しかし視神経を刺激する爪先の緩慢な動きによって、男の硬い頭蓋骨で覆われた脳のなかで、こつ、こつ、こつ、という音が何度も浮き上がっては冷たく響き、街の風景は溶け、女の姿は曖昧になって網膜に焼け付いた別れた女の残像とだぶる。いや、それは捏造だ、偽物だ、反射的に現れた自己否定の声に捕えられて、自ら生み出した安直な恍惚は逃れられない恥辱へと姿を変える。やむこと無い街の喧騒は男を笑う声となり、たまらず耳を塞いだ。そして目は濡れては乾きを断続的に繰り返し、気づいた頃には女の姿はもうどこにもない。夏の終わりの夕暮れの公園、ぬるい空気のなかに香り立つ草木の匂いに男は思う。明日は雨が降るだろう。
――海なんて久しぶり
 歩行に促されて流れる街の風景。頬に残る涙の筋がかすかに風を感じる。風に靡かれて女の声が喚起された、立ち止まった、握りしめた拳は緩められた、手からこぼれ落ちた砂は地面を叩き小さく音を立てた。平面的な海、顔のない群衆、脳裏を過った断片的な記憶が折り重なって、女の姿が男の瞳の奥で立ち上がる。男の視界は揺曳する。
 海へ行こう、海へ行こうとせがむ女に負けた、出不精だったが電車に揺られて二時間ほどかけて海まででた。小学生のとき以来かなぁ、サンダルが鬱陶しくて弟と裸足で砂浜を走りまわったんだー、懐かしい、隣で女の嬉々とした声を聞いていた、機械的な動き、一見ごく自然な動きである不自然な動き、うん、うん、うん、と反射的に打った相槌で二人の間の余白を埋めた。回転する車輪、きしむ車体、霞んでゆく街の遠景。女はしゃべる。足の裏のあの感触、最初は痛いんだけど、気がついたら心地良くなってる、なってるの、日が暮れるころにはその感触も忘れてしまって、またサンダルを履いた頃にはもう砂の感触なんて思い出せない、あのとき本当に海に行ったのかも思い出せないの。遡行。女がしゃべるにつれて時計の針は揺らいでは逆向きに回り、女は少女の顔になった。違和感はなかった。違和感なく少女になったのが逆に違和感だらけで男は凝視する。女は女のままだった。少女ではなく女だった。しかしやはり違和感はなくて、違和感だらけなのは変わらない。電車を降りると、男は湿った空気に絡む潮と、直線的に肌に降り注ぐ強い陽射しに一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れた。歩きたい、砂浜を、歩きたいの。女に手を引かれて息が零れた。駅構内に同様の動きを見せる男が、女が、幾人かいた、呼吸を忘れるほどでなくとも慣れない海沿いの土地に目が眩んだ男が、女が――
 男は再び歩き出す。赤く燃える雲の平板が頭上を這う。
 街の喧騒は途切れた。隔絶された室内は沈黙の音で満ちている、流れのない川の水底のような空間のどこかから、なにかが、卑しく笑う声を必死に押し殺しているような沈黙の音が満ちている。そのなにかの生暖かい息が男の肌を撫でるような感覚にとらわれ、あの恥辱がよみがえってきた。男は喉の奥から、腹の底からこみ上げてきた嗚咽を床に向かってぶちまけた。蹲って、鼻を啜って、泣いた、沈黙の音に、あの卑しい声に抵抗するように泣いた、必要以上に声を出して泣いた。靴を脱ぐと、かすかな音を立て砂粒が落ちた。靴下を脱ぐ。すると一握りほどの砂が、重い音を立てて落ちた。男は玄関にできた白い小さな砂の山に手を伸ばし、人差し指と親指でつまむ、つまみ上げる動作の途中でほとんどが零れ落ち、一粒だけ残った。白い粒だった。それを掌に乗せたところで少しむせ、弾みで粒は砂山に落ちた。砂の小山を見る。落ちるとどの粒を掌に乗せていたのかもはやわからない。その砂粒の落ちる音は男に聞こえなかった。軽く鼻を啜って、ズボンを脱ぎ、トランクスとTシャツだけになると、ベッドに座ってビールを一口舐めた。そこでようやくまともな声が出せそうな気がして、あ、と呟く。発音を確認すると、疲れた、と自分の声を再度確認した。自分の声を聞くと少し胸が晴れた気分になったが、声が消え、また暗澹とした沈黙の音に包まれると胸がつかえ、声がだせなくなった。缶ビールを見ると水滴とともに砂粒がついていた。散らかったテーブルの上の僅かなスペースに缶を置くと、自分の手形に砂が付着していた。自分の手を見ると砂がべっとりとついていた。太腿で手をはたいてからもう一度、掌をじっと見つめると砂粒が僅かに、しかし一様な密度で付着していた。立ち上がってベッドを見ると、尻の形をした窪みに砂粒が一握りほどあった。足元にはその二倍ほどの砂が落ちていた。男は何が起こっているのかを考える。耳に神経を集中すると、かすかに、ぱらぱらと音がしている。音に気がつくとそれは次第に大きくなる、男の静かな部屋のなかでそれははっきりと聞き取れる程度に輪郭を帯びる。どこからか砂が落ちている、上の階から砂が落ちてきているのではないか。そう思ってじっと天井を睨みつけた。上から落ちていると思えば思うほど砂が降っているように見えた。砂の音は次第に大きくなっていった。その加速度は緩慢だったが、男が音に気がついてから五分もすれば耳を手で塞いでも否応なく聞こえる程度になっていた。音こそするのに、落下しているはずの砂粒が体に当たらないことを、男は不思議に思った。するとその瞬間、トランクスがずれ落ちた。砂は男の肩幅ほどの長さを長軸にした楕円状にフローリングの床に薄く積もっており、トランクスは陸にあげられた海月のようにその上に張り付いている。男の萎んだ陰茎は一様な密度で砂に塗れ、陰毛に砂粒がまばらに絡まっていた。そして男の先端から砂粒がぱらぱらと剥落しているのをはっきりとその眼で見た。男はTシャツを脱ぎ捨てた。首まわり、脇の下、へそ、全身に隈なく砂が纏わりついている。床に落ちた砂は蛍光灯の光を弾いて男の眼を指すほどに白く光っているが、体に付着している砂は男の汗をすっているのかやや黒ずんでいた。男は自分の頬に手で触れてみた。ざらついた感触を手に、頬に感じたが、それは果たして手に付着した砂の感触なのか、それとも頬に付着している砂の感触なのか、それとも両方なのか、まったくわからなかった。手で頬をどれだけこすっても、砂の感触と砂のきしる音、そして剥がれ落ちて床の上に落ちる音が消えなかった。次から次へと、全身から砂が吹き出してくるようだった。気がつけば、男の肌は完全に砂に覆い隠されていた。男は洗面所に飛び込み、鏡の前に立つ。肌は砂で完全に覆われて見えない。唇も黒っぽい砂に覆われて、口と眼を避けて砂粒が肌を完全に埋め尽くし、男はそれを己の姿だと信じることができなかった、鏡のなかに住む薄黒い砂粒の間から真っ黒な瞳を覗かせている怪物にしか思えなかった。怪物の見開いた眼を見ながら下唇を噛むと、口のなかにまで砂のざらついた感触が侵入してきた。男は咄嗟に唾を顔の真下にある洗面台に吐き出した。唾は勢いのよい音とともに男の口から放たれたが、下唇に付着して、無色の粘く長い糸を引きながら砂粒を絡ませてゆっくりと落ちた。しぶとく唇にしがみつく唾の不快感と、まだ口のなかに砂粒が残っている不快感を拭うべく、ぶっ、ぶっ、ぶっ、とできるだけ大きな音を立てながら洗面台に向かって唾を出すも、出せば出すほど口のなかは乾き、砂の感覚を拭うことはできない、正確には砂はもう口のなかに残っていなかったが、乾きが男に砂が残っているという錯覚をもたらしていた。唾を吐くのをやめ、肩で息をしながら洗面台に顔を突っ伏しているとからからと音がする。砂粒が洗面台を叩く音だった。自分の頬を引っ叩くと、勢い良く砂が落ち、洗面台でわめきたてた。じっと掌を見る。砂は蠢いていた。砂の下の方から、皮膚から、新たな砂粒が男の汗を吸いながら湧き出していた。まるで砂粒一つ一つが生き物であるように思えた。それぞれの小さな砂粒は、自分の細胞だ、蛆虫のようにうねりながら皮膚から這いでては直ちにその生命は尽きて固く丸くなっている――男にはそう思えた。尚も砂粒は男の体から剥がれ落ちることをやめなかった。砂が洗面台の上を弾む音は砂が砂の上を弾む音へ変わる、質量感を増しながらやむことなく響く。
――砂になるの
 二人は人ごみの間を縫うようにして裸足で浜辺を歩いた。女の後ろ二歩ほどを二人分のサンダルを持って男は続く。人々の賑わう声、声、声の合間に小波が聞こえた。どちらかが発した声も喧々とした周囲のざわめきに紛れて互いの耳に届くことはなかった。男は時折見える女の横顔、眼を細めて沖の方を眺める彼女の顔を見ていた。これまでに幾度となく現れる沈黙を恐怖していたことに気がついた、その沈黙を埋めようとなんでもない話をし、相槌を打っていたのではないか、そしてそれは彼女も同じなのではないかと、小さくも大きくもならない女の背中を見つめながら思った。女はやや大げさに左右に揺れながらゆっくりと歩いた。女が立ち止まったときに、不意に浜辺の喧騒がぴたりととまったかのような気がした。砂になるの。女の声がはっきり聞き取れたかと思うと、海岸はまたしても人々の嬉々とした声で埋め尽くされた。男は女に返す言葉が見つからず黙ったままだった、あるいは意味のない相槌を軽く打ったのかもしれなかった、しかしそのどちらだったかも男にすらわからず、どちらにしても女の耳に男の声は届いていないことに変わりはなかった。砂にめりこむ足を一歩一歩ゆっくりと持ち上げて男は女の傍まで移動した。浜風を全身で感じ、それほど長くない、肩までの髪を靡かせる女に、何を言うんだ、と男は言った。呼吸によって潮の匂いの循環が促される。幾度となく重ねた情事の後の、まるで干乾びてしまったような眼をして女は言う、もう会わなくなった人も、わたしの知らないうちに土とか、砂粒とかになっちゃったんじゃないかってたまに思う、思うの、生きている人ってすごくたくさんいるけど、でもわたしが知ってる人、区別できる人ってすごく限られている、人って、砂粒みたい、ほら、ここにいる人みんな、そう、誰が誰だかわかんない、全然わかんない、みんな一緒に見える、見えちゃうの、もう会わなくなった人は、遠くへいったんじゃなくて、わからなくなっちゃったんじゃないかって、この人混みのなかにいるかも知れない、でも――そこで男の声が重なる。僕は見つけることができない、そして相手も僕を見つけられない。男は少し埋まった足を持ち上げて砂を払った。二人は黙った。男のなかから沈黙の恐怖が浮上してきた。浜辺の喧騒に自分たちの存在さえも飲み込まれてしまうのではないか、女のなかで自分もまた砂粒のひとつになりそうな気がして何か言わねばと思ったが、次の言葉を考えれば考えるほど言葉は出てこず、唇を噛み、粘っこい唾液を飲み込んだ。女は腰を下ろした。男も無言で隣に座った。隣にいてくれるだけでいいのかもしれない、女はそうつぶやき、足元の砂を握った。女の手からはらはらと砂がこぼれ落ちた。そして、じっと掌を見つめていた。共犯意識に似たものだ、少なくとも男はそう思った。女もまた、誰かのなかで――男のなかで――砂になることを恐れていたのかもしれない、と。男は言った、隣にいる人の名前ぐらいはわかるよ、たぶん、これからも、忘れないと思う。女は抑揚のない声で言った。えらいね、すっごいえらいね、感心しちゃった、拍手してあげる、でもね、わたし、君の言葉が聞きたかった、どこからか持ってきたような言葉じゃなくって、君の言葉が。女は勢い良く立ち上がった。男に顔を見せることなく続ける。裏切ってよ、早く裏切ってよ、いち早く裏切ってよ、先に裏切ってよ。
――なんで、 ――きれぎれになって
――どうして、 ――砂粒みたいに
――そんなこと ――なんでもない
 それっきり言葉はない。女が前、その二歩後ろを男。ふたりは自分の足の形を、砂の感触をたしかめるようにゆっくりと歩いた。
 男は蛇口から水を出して、しきりに手を洗う。水は砂を洗い流し、男の肌が覗いたが、水から手を出すと蟲が蠢くように皮膚は波打って、そこからみるみる砂が湧き出してくる。三秒もたたないうちに男の肌は再び砂に覆われた。もう一度鏡を見ると、自分の髪の毛がなくなっている。砂になった、砂になって落ちたのだ、男はそう思った、恐ろしくなった、汗が体から吹き出す感覚はあったもののそれらは砂にすべて吸われ、激しい渇きを覚えた、強烈な吐き気が男を襲った。男はたまらず洗面台に突っ伏して込み上げてくるものを吐き出した。喉の奥を無数のなにかが、ざらついたものが通る、口のなかの水分を奪えるだけ奪い、しかし乾ききったままの状態で砂が堰を切って滝のように出てきた、洗面台に落ちると重々しい音と共に砂埃を上げた。砂で満たされた洗面台を見て、男はえずいた。自分に起こっているこの変異を現実のものだと認めるには難く、悪い夢からはやく抜け出そうと抗うように大声を上げた。声は虚しく空を切るだけで、まもなく部屋は沈黙する。乾ききった口から砂はもう出なかったが、体から落ちる砂の音は否応なく耳に入り込んできた。男の足首まで砂が積もっていた。天井が高くなっているのに気がついた。しかし、それは天井がほんとうに高くなったわけではなく、男の体が縮んでいるということを示していた、男のなかでそれを認めようとしない否定の声が喚きだし、ただ眼を見開いて、鏡のなかの砂に塗れた怪物を凝視する以外になにもできなかった。体が重い、湧き出すことをやめない砂が全身にのしかかってくる、潰されそうな気がした、同時に自分の体が安物の人形のように軽くなっているようにも思えた。砂を見るとどこまでが自分で、どこからが砂なのか、男にはわからなかった。意思を持って男の体から這い出し、剥がれ落ちた砂はひとつとして例外なく動かなくなった。やがて剥がれ落ちた砂は僕を埋め尽くすだろう、僕は砂に飲まれるだろう、砂が僕でなくなるのではなく僕が砂になるだろう、砂が落ちるほど男の思考は悪い方向へと走りだし、落ちていく砂は男の思考を奪っていった。砂は落ち続け、男の体は縮み続ける。男は浴槽に飛び込み、シャワーで冷水を頭から浴びた。浴びた瞬間は砂に阻まれて水の感触を感じなかったが、砂が水に流され、皮膚が露出されるまでのほんのわずかな時間の誤差を経て、男の肌は濡れる。不意に爪を剥がれて舐められるような痛みが指先にはしり、ひっ、と声を細かく立てた。その拍子に、ざらついた泥水に足を滑らし転倒し、尻を強打した。瞬間的な痛みはおさまったものの、指先の痛みになおも喘いでいる。シャワーは男に無関心なまま水を降らし続け、尻餅をついたままの男の全身に水を浴びせ、浴びせ、浴びせ続け、水の浴槽を叩く音に混ざって砂の高い音が響く、男が身を強ばらせ、手の、足の指先に力が入るたびに激痛とともに砂のきしる音がかすかに、しかしはっきりと響く。剥落する砂粒は浴槽に堆積する、水を吸っていっそう黒ずみ、重たくなる、剥がれ落ちて肌は露わになるもそれはやはりごく僅かな時間で、すぐさま砂が皮膚から這い出してくる、這い出した砂は水によってすぐさま肌を離れる、そんな不毛な労働の際限なき反復の繰り返しのなかで、男はただただ喘いでいる。降ってくる水から顔を避けて、天井を見上げた。落ちてきそうなくらい高かった。手元の砂を掴もうとしても、男の手は小さく、指も短くなっていて掴んでもはらはらとほとんどが零れ落ちた。辛うじて掴むことができた微量の砂を壁に投げつける。砂と壁の衝突音も、降り積もる砂のかすかな音もシャワーの音に飲まれ、男は膝を抱え、またしても声を上げて泣いた。しかし涙は流れない、すでに枯れた、枯れてしまった、断続的に吐き出された声が空を切るばかりだった。
――ハナビミタヨネ
 男と女、それぞれの自宅からほぼ中間に位置する喫茶店――互いの家の合鍵を持っていたが女のその方が待ち合わせらしいという一声で会うとなれば暗黙のうちに待ち合わせ場所となった喫茶店――で二人はテーブルを挟んで座っていた。けれどもしばらくは互いに一言も発することはなかった、会う提案をしたのは女の方だったが怯えているのか、男に視線を合わせようとしない、窓の外に視線を逃がしては時折唇を噛んだ。男も女に視線を合わすことはできなかった、徐々に水を吸ったように重たくなる空気に耐えながら口を閉じて、手元の汗をかいたグラスを見るともなく見ていた。女が視線を窓の外から内へと戻したとき、唇が小刻みに震えだした、言葉を探しているのか乾いた唇を舌先で舐めた、男は時が来たと悟り女の顔を、口を、眼を見た。――ハ、ナ、ビ、ミ、タ、ヨ、ネ――女の口から零れた言葉にすらなりきれていない物理的な発生音の意味を男つかめず、きれぎれの音を繋ごうと女の発した音を口でなぞる、花火見たよね。ほら、いつか海に行ったとき、それで海からここに帰ってきてから。男は頷いた、しかし黙っていた。女はか細い声で続ける、うん、それだけ。そこでまたしても二人は黙りこんでしまった。女は俯き、何も言わない男に対してか、あるいは自分自身に言い聞かせているのか、うん、うん、うん、と小さく頷いた。男はそれをただ見ていた、見ることしかできなかった、行き場のない指先が言葉を探してテーブルの上を這う。けれども言葉は見つからず喉だけが渇いてグラスのなかで氷が動いた。断続的に思考は途切れ、その度に途切れた思考を再び繋ごうと指先が彷徨う。ねぇ、もう……、不明瞭に発音された涙混じりの女の声。女は顔を上げて、眼を赤く腫らして、けれども気丈に振る舞って見せようと口元だけは笑って見せた、しかしその唇は先ほどよりもより細かく震えている、痙攣したように震えている、見つけた言葉を零せずにいる、同時に零さまいとしている、女は男の顔から視線を離さない、まっすぐな視線、ふと震えが止まる、ゆっくりと再び口を開く、口を半分開いてもなお言葉は出てこない、喉にひっかかった言葉を奥から絞り出すように女は意識的に発音を促す。何度ね、体を重ねたところで、肉体で隔てられているから、やっぱりそうだから、わたしはわたしで、君は君でしかなかったの、最初からわかっていたのにね、楽な方に楽な方に堕ちていっただけだね、お互いに。男は頷いた、うん、うん、うん、と頷くばかりだった、しかし声は出ない、出せなかった、男も発音を促していたが、喉が、気管がふさがっているように息苦しく、声を出すことができず、そもそもなにを言いたいのかさえ自分でもわからぬまま、背筋を緩く湾曲させてただ小さく頭を振るだけだった。男は女との関係性に惑溺していたのだと悟った。女と行った海や花火の場景の大部分はすでに色褪せていた、行ったという記憶だけは残っているものの、それが果たしてどんな場所で、どんな色で、どんな音がしたのか、男はどうしても思い出せなかった。どれもこれもが絡みつく体液の記憶ばかりで乱れた振り子のように思考はふれる。男の手足の指先に、あのざらついた砂の感触はもはや残っていなかった。それでも男は指先で言葉を探していた。女はそこまで言って、窓の外に視線に逃がした。赤く腫れて、潤んだ女の瞳を男は直視できず、グラスに視線をやって、うん、うん、うん、と声もなくただただ頷いていた。女は表情を変えず、視線を逃がしたまま、黙っていた。
――ねぇ、もう、これっきり……

「         」

 発音されたのか、されてなかったのか、はたしてそれはどうだったのかわからない。男は強く下唇を噛んだ。切れた。血が滲んだ。舐めた。口のなかに血の無機質な味が、においが広がって体の芯が凍りついていく。

 すでに体はもとの半分にも満たないほどになっていた。再び部屋に戻ったが、砂の剥落は止まらない、男にもはや体毛は残っておらず、砂に塗れた顔に表情も何もない、作りかけで放置された人形のようだった。指は短く、疣ほどの膨らみとして残っているだけでもはや砂を掴むことすらできない、うまく立つことすらままならず、這って移動することしかできない、陰茎と呼べるものはもうない。男の移動した経路には轍のように砂が残った。閉め切った部屋は静かだったが、出しっぱなしのシャワーの、排水溝に砂が詰まり流れなくなって浴槽に溜まった水を叩く音が、否応なく耳にねじ込まれる。もう指とも呼べぬほどにまで短くなった指を耳の穴に突っ込んでも、今度は砂のきしる音が頭のなかで響いては男の思考をかき乱す。部屋に寝っ転がって、男にとってはあまりにも高くなりすぎた天井を見た、男の体から剥がれ落ちていく砂の音は大きくなっていき、やがては水の跳ねる音よりも男の頭のなかで響いた、男は何もできない、それゆえその音を聞くことしかできなかった、もうじき自分は消える、ただの砂になるのだと思考を彷徨わせて……。男は膝を抱えて、胎児のような格好になった。体から砂はなおも剥がれ落ちる、それにつれてやはり体はみるみる小さくなっていく、相対的に目に見える砂の粒が大きくなっていった。男は周りにある砂粒のひとつひとつをじっくりと見た。それらはどれもこれも男と同じ姿をしていた、膝を抱えた、干乾びた胎児だった。体に付着する砂粒も、這い出してくる砂粒もより鮮明に見えるようになっていった。その胎児たちは桜色の体をくねらせ、叫び声を上げるように眼を、口を大きく開き、短い手足をばたつかせながら、他の胎児たちを押しのけて皮膚から這い出してくる。そして男の体から落ちまいと、しかし無数の胎児たちで埋め尽くされた皮膚にはしがみつくことはできず、他の胎児にしがみつくが、次から次へと這い出してくる胎児たちに押し出されて砂の上に落ちていった。砂の上に落ちると、胎児たちは干乾びていく。口を閉じ、眼を閉じ、まるで死を静かに待つように、あるいは生まれ変わって再び目覚めるときを待つように膝を抱えて眠る。干乾びた胎児は決して動くことはなかった。けれども、どの胎児も、一人として同じ胎児はいなかった。少なくとも、男にはそう見えた。落ちた胎児は硬くなってぴくりとも動かない、しかし深く呼吸をしていた、どれも違う息遣いで呼吸していた、男はそう思えた、思いたかった、どの胎児も違っていたのだと。男はまばたきせずに彼らを見た、一度眼を閉じてしまえば胎児たちを区別できなくなってしまいそうに思えた、瞼の裏に映る胎児は男がいま見ている胎児とは違う、固く閉ざされた瞳も、丸い背筋も、小さな手足も、記憶のなかに一度埋もれてしまえばそのディテールが失われ、胎児が画一化されてしまう、それがとても怖かった、男は決して眼を閉じまいとした、もうすでになくなったと思われた水分だったが乾いた瞳を涙が濡らす。男は小さくなり、胎児たちは大きくなっていく。胎児たちの落下音も大きくなっていく。シャワーの音はもう聞こえない。涙は絶え間なく瞳から流れ、男は干乾びていく。干乾びて、干乾びて、干乾びた胎児となっていく。男は眼を瞑らない、決して瞑らない。この場景を、胎児ひとりひとりの姿を、表情を、網膜に焼き付けようとしていた、自分のなかで消えてしまうことがないように。せめて、自分が消えてしまうまでは――
――砂時計みたい
 いつの間にか置かれていたコーヒーは冷めていた、女の声は沈黙を破った、男はぴくりとも動かず、視線を氷が完全に溶けてしまったグラスに固定したまま口を閉じていた。女の言葉を反芻した。砂時計みたい。女の言葉の意味がわかるような気がしたが実際にはわからないに等しかった、わかりたいと思った、わからなければいけないと思った、砂時計みたい、女の声が頭のなかで反復的に再生される、その音の並びのなかから女の真意を見出そうとした、しかしできない、ゆっくりと女に視線を移した。女は依然として窓の外を見ている。椅子に深く腰掛け、背を伸ばして、無理に作った仏頂面で、眼を赤く腫らして口元が微かに動く、砂時計みたい、男の頭の中で何度も響く、砂時計みたい、砂時計みたい、砂時計みたい。姿勢を保ったまま女は口だけ小さく動かせて呟いた、しかし男にはその声が聞こえなかった。女の言葉はそれ以上続かなかった、続くべき言葉の行方は完全に見失われ重く冷たい乾いた空気に黙殺された、男は奥歯をきゅっと噛んだ、喉元につかえたまま出てくることができないでいる言葉を引き出そうとした、乾ききった口のなかには焼ききれた思い出が巡った、そのなかに紛れ込んだ言葉を探した、指先で言葉を手繰り寄せようとした、砂時計みたい、言葉はつかめず、指先がテーブルの上で惑い続ける、男の思考は空を切るばかりで、頭のなかで女の言葉がなおも繰り返された、砂時計みたい、ただ、なくなるだけ、落ちたものは、もう……ねぇ、もう……男の視界は揺らぐ、波打つ、雑多な景色が混ざり合う、耳の奥で唸る、指先にざらついた感触が蘇る、コーヒーから薄く緩やかに立ち上る蒸気、水滴に塗れたグラス、言葉を探し惑う指先、僅かに濡れた女の唇、痙攣したような眼球運動、細かく震える睫毛、手から剥がれ落ちる砂、浴槽へ落ちる水、ハナビミタヨネ、水面を跳ねる雫、立ち上がる女、なくなるだけ、砂みたい、波打つ水平線、危なげに傾いた店員の手の上のトレイ、皮膚から湧き出す砂、砂になるんだよね、街路を吹き抜ける風に靡く見知らぬ女の髪、払いのける、剥落する砂、払いのける、砂の上に弾む砂、大げさに揺れて歩く女、握りしめた手のなかできしる砂、振り返ることなくまっすぐ扉に向かう女、車窓からみる街の遠景、またサンダルを履いた頃にはもう砂の感触なんて思い出せない、携帯電話のくぐもった振動音、部屋を浸す澱んだ水、あのとき本当に海に行ったのかも思い出せない、携帯電話のくぐもった振動音、膝を抱える胎児、遠ざかる女の後姿、眼を瞑る胎児、小さくなる女の後姿、砂時計みたい、携帯電話のくぐもった振動音、砂みたい、地に降る煙草の灰、宙を漂う煙、昏々と眠る胎児、影に飲まれていく女、携帯電話のくぐもった振動音、砂みたい、風に舞い上がる砂、携帯電話のくぐもった振動音、払いのける、薄ら暗い笑い声、払いのける、なおも剥落する砂、払いのける、砂、払いのける、砂、払いのける、砂、男を引く女の手、深く息をする干乾びた胎児……、視界は白濁化をやめない、眼球は混濁した水に汚れる、眼球に赤い網状の筋が走る、顔面の筋繊維が緊張し、ぴんと皮膚を張る、薄い瞼の僅かな隙間から放たれた視線は水面を出て、宙返りして、散乱し、雨のように降り注いでは無数の胎児を直視する、しかし瞼は重く、ゆっくりと閉じられていく、視界は狭まり、いっそう白濁し、瞼の裏まで白濁し、ねぇ、もう、これっきり……

 アスファルトに覆われた地殻の上を疾駆する車輪、無言で俯いて不揃いに靴底をならす群衆。足元の砂はなにも言わない、なにも語らない。風に巻き上げられ、街路に佇む無数の人々を叩き、払いのけられる。街を満たすぬるく湿っぽい空気を吸い、西の空を圧迫する黒い雲を見て人々は思う。まもなく雨が降るだろう。
 (了)