カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


労働者としての読書/歩くこと――多和田葉子「かかとを失くして」

 

10月からいろんな仕事を引き継ぐことになって、それまでが大した仕事量ではなかったこともあり単純に引き継いだ分だけ一日にしなければならないことが増えると、帰る時間が一般的なサラリーマンと同程度には遅くなりはじめてきた。とはいえ、21時には会社を出れるのだから知る限りでは決して遅い退社じゃなくむしろ早い方で、それでも家に帰れば夕食とお風呂の義務をこなせばそれ以外になにもしたくなくなってしまう。通勤時の電車のなかも、これまではちゃんと本を読んでいたのに最近はといえばdアニメストアで取りこぼしたアニメの鑑賞、なのだがそれも最初こそシリアスのものを見ていた、はずが、いまではギャグアニメになっているのだから情けない。

 

最適化、というのはなかなかばかにならないもので、宇宙空間に放置した水滴がヘルムホルツの自由エネルギーを最小にするため球形へと変形するように、日常に放置されたひとは朝の布団にトラップされ、食事後の食器を洗うことをためらうし、本の次の1ページをめくることさえおっくうになる。じぶんが能動的に環境を変えようとするということを放棄するこれは、環境に対してみごとに適応して見せた! というよりは、むしろ環境に対する圧倒的な敗北の結果にほかならないような気がする。仕事を思うようにすすめられない、というストレスがあって、しかしそれも

「ああ、すぐに慣れるよ」

といわれ、いつか、おそらくあと同じ処理を3、4回もすれば悩むことすらなくなる程度の作業になっていくのだろうというなんとない確信はあるけれども、そういった作業がぼくの一日のなかに堆積していけば、いまよりずっと楽にはなるだろうけれど、それならぼくはむしろルンバになりたい。

 

本を読めていない。

いつも鞄の中には本を最低2冊はいれている。

ひとつはここに書くネタにでもなればいいなと思っている本で、もうひとつは心が折れそうになったときの緊急避難として読むための本。意識的に読もうととりあえず毎日手にとっては見る本は前者で、しかし日に日に字面を這う視線は軽くなるし、日に日にきのうのことを思い出せなくなるから、日に日にその本を開くこともなくなってしまう。正直、ぼくは周りにくらべ明らかに本を読む類の人間だろう、しかしその類の人間ですら毎日の読書に疲れや苦痛を感じるのだったなら、ぼくじゃない無数のひとたちは本を読む、という発想すらないような気がした。そして同時に「手に取った本がつまらない可能性」をすごく恐れたり、そうであったときの憤りもまたひとしおだろうとおもった。

それはつまり、とおもう、本を読む、ということに対してなにかを求めているのではなく、本を読むことではなく、本に書かれている情報を摂取したいみたいなところがぼくのなかにもあるんだろう、そんな気がした。身もふたもないことをいえば、アニメであればわざわざこっちからページをめくらなくても、時間が来れば終わってくれる。こっちのかける労力を低く保ったまま、楽に情報を摂取できる。すごく当たり前なこと。毎日の満員電車のなかでぼくはもう本を読まなくなるかもしれなかったし、このままだと、この世のだれもが本を読まないかもしれないような気がしたぼくは自分じゃないひとのことを考えるのがとても苦手で、その日のポストには文学フリマの参加要項が届いていた。

 

 

文学フリマ出ます。

「アマチュアで妥協」B-5

同人誌「らくせんvol.1」をうります。

これから本気出します。

 

 

 

 

 

きのうは7年くらい続いている、大学学部時代のツレたちとの年に2、3回くらいする集まりがウチであって、中華街でお昼をして、兵庫県立美術館でだまし絵をたくさんみてから、おいしい焼肉を食べてビールを飲み比べし、家に帰ってまたお酒をのんで気がついたら眠っていた。起きたらみんな広島とか滋賀とか名古屋とかに帰って行って、ぼくら夫婦はのんびりできた。アニメを見たり昼寝をしたりした。

二度目の昼寝から目覚めたときに、ぼくは今日なら少し小説を読めそうなきがしたから、短い小説を読むことにして、実際に最後まで読めたからうれしかった。多和田葉子「かかとを失くして」だった。

 

九時十七分着の夜行列車が中央駅に止まると、車体が傾いていたのか、それともプラットホームが傾いていたのか、私は列車から降りようとした時、けつまずいて放り出され先にとんでいった旅行鞄の上にうつぶせに倒れてしまった。

 

多和田葉子,「かかとを失くして」

 

この小説は表現ではない、とおもった。しかしそれと同時に、小説は表現でなければならないのか、という疑問も大きく、そもそも表現とはなにか、ということもよくわからなくなる。ただいえるのは、この小説ではそもそもの世界が不在であり、この小説で書かれている街やひと、生き物や生き物でないもののすべては、ことばより先に存在しえない、というような感じがある。「私」に先だって存在しただろうものを、ことばによって描写した、という類の文章とは明らかに違う。そんな感じがあるから、この小説は意味・情報という観点から見ては表現ではありえないとぼくはおもう。

世界に対してことばが優位に立っている、というようなこの小説では、ことばが吐き出されるにつれて世界全体が動きだし、個ではない大きな全体が動くからこその、強い歪みを感じる。冒頭の文章の疑いようのないことさえも疑わなければならないような感覚が、小説ぜんたいを包んでいる。

 

前方の曲がり角に立って太った白い猫がこちらをうかがっているので、近付いていくと、猫はしばらく私をにらんでいたがそのうち回れ右して路地に入っていき、ごみ箱の間を巧みにすりぬけて、太っているのにひょいひょいと軽い足取りでどこかへ急ぎ、後をつけていく私の方は、猫というものが目的を頭に描いて歩いていく動物なのか、それとも気ままに歩いて偶然に獲物を見つける動物なのか、また目的が頭の中にあるとしたらそれは言葉なのか映像なのかにおいなのかそれさえ知らず、それでも平気でついていったのは、私自身の目的がはっきりしていなかったので、つい猫の自身に満ちた足取りに信頼を寄せてしまったせいかもしれない。

 

多和田葉子,「かかとを失くして」

 

また、ことばは「私」が視認したことだけが語られるわけじゃない。むしろ、「私」の視線は、「私」が見えないものへと突き抜けようとするし、「私」が知りえないことへと思考は伸び、意識はこの世と夢に境界を設けることさえ放棄している。Aを語るために、AだけでなくAでないもの、AでもAでないものですらない全く別のB、など、発せられたことばは一本でなく、無数の分岐を示唆しながら伸びていく。この小説はそのようにして「空間」が張られていくし、そのようにした立ち上がったイメージが、この小説を描写したものに他ならない。

この小説は、ことばが世界を描写するのではなくて、世界がことばを描写するのだと、そんなことをおもった。おもしろかった。