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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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南海電車と解脱の眺め/バロウズ「裸のランチ」

読書 日記

 

裸のランチ (河出文庫)

裸のランチ (河出文庫)

 

 

乗るならばいちばん好きな電車は南海電車だ。

 

一年ほど通学に使っていた阪急電車はいつも息苦しくて好きになれなくて、JRはなんだかお高い印象があって可能な限り避けてしまう。京阪は座席が抜群に好きだけどそもそも通らない道を走っていて、近鉄は良くない意味での安っぽい感じがある。南海は近鉄に似ているけれども近鉄で感じる、安っぽい、というイメージがなんとなく、庶民、っていうイメージで受け止めることができるからかもしれなくて、走るスピードも、風景の流れ方がなんだか抜群にいいし、本も読みやすい。南海に乗ると、考えたいことを考えることができる、なぜだかわからないけれどもそうなのだ。

 

きょうは南海電車に乗って、大阪と和歌山のあいだくらいに仕事でいった。

片道1時間くらい電車に乗れたので、このあいだひとと会ったときに話に出てきたバロウズの「裸のランチ」を読んだ。

 自警団員は精神分裂の憑き物患者を自称して足抜けした――
「おれは自分の外に立って影のような指であの絞殺をとめようとしていたのだ…… おれは幽霊で、あらゆる幽霊が求めるもの――肉体――を求めてこれまで長いあいだ何のにおいもない空間の小路を通り抜けてそこに生命はなく、単に無色無臭の死があるだけ…… 水晶のような鼻水と時間の糞と黒い血をこす肉のフィルターの入りまじったピンク色の軟骨の渦巻の中では、誰も生命を息づくことも、そのにおいを嗅ぐこともできない」
 彼は法廷の細長い物影に立っていたが、その顔は麻薬の切れた(第一番のさいの拘留は十日間)エクトプラズムの肉体の中でうごめく幼虫的器官の渇望に引き裂かれてぼろぼろのフィルムのようになっていた。その肉体はそっと麻薬に触れたとたんに影のように薄れる。

 

ウィリアム・バロウズ,「裸のランチ

この部分を読んでいるとき、どうしてか涙が止まらなくなってあせった。本を閉じ、涙を拭いたらまた流れてきて、あーやばいやばい、このあと仕事の話をしなくちゃならないのに!とおもい、Twitterのできるだけくだらないbotのツイートをたくさん読んだりしたけれども、時間をあけてふりかえると、あのままギリギリまで泣いていたらよかったのかもしれなかった。

 

ぼくはこんな文章をぜったいに書けない、そんな風な確信がふっとでてきてしまった。いままでももちろん、あーこれすごいなー、ぜったいこんなの書けないや!とおもうことなんてありすぎるくらいにありすぎたけれども、それはその詩や小説の性格なり個性なり、たぶんそういった次元で感じるところだったけれども、きょうに限っては、ぼくはこんな「強さ」を持ったことばをぜったいに書けない、そういう風に感じられてしまった。この日の朝、ぼくは小説を二度と書けないかもしれないことが怖かった。

 

バロウズの「裸のランチ」は、「自分という他者」を目指しているのか「他者という自分」を目指しているのかがまったくわからない、しかしぼくが言えることは、「自分」というものから必死に逃れようとする小説だとおもった。

雑多なエピソード、入れ代わり立ち代わり現れる多くの登場人物、それらの意識の交換のようなもの、いまでこそある種のサイバーパンクとして読むことができそうなこの小説の(技法的な意味での)ありかたが、トマス・ピンチョンやガルシア=マルケス村上春樹などの小説とまったく違うありかたをしているし、決してサイバーパンクというものとは似ても似つかないものでその文脈で読まれる小説ではおそらくないだろう。なんというか、「裸のランチ」は世界を描くことを目指した小説ではない気がする。この小説は、ひたすら形を持つことから逃れようとしている。

 

エクスタシーということばは、「肉体から魂が抜け出るときに伴う快楽」が元の意味だと、むかしどこかで聞くか読むかした。古代ギリシャの人々は快楽を、性交、酩酊(酒や薬物による)、舞踏に見出した。「裸のランチ」は純粋なエクスタシーの実践そのものなのだろう、小説本文がだれのことばなのかわからなくなることがたくさんあって、本来の語り手が本文から気配を消す。わからないのは、語る者か、書く者か、読む者か――だれが快楽を得るのかということだった。しかしこれはたぶんすごくくだらない問いで、筆を執るのはバロウズに他ならない。この小説を読むためには、ぼくは「裸のランチ」を書かなければならない。書く、という行為と等価な読書をしなければならないのだ。

 

最近、ほとんど本が読めない。

なんとか毎日本を開いてはみるけれども、どうしても一冊を読み切れない、頭にことばが入ってこない、情報を摂取するにとどまって、情報以外のものとしてことばを見れないようになっているというか、どことなく、じぶんの身体のどこかがごっそり変わってしまったみたいな、変わりたくなかったものが変わってしまった、それが取り返しのつかない変化なのかもしれない――朝起きていたら左利きに変わってしまっていたような、そういう違和感がある。もっとも理想的な読書ができて、思い通りのことばを書けていた一年前から、ずいぶん遠いところにきてしまったことが悲しい。

小説がもう読めないかもしれない。

そんなことを思った。

 

仕事の行先は海が近かった。

テトラポットが海を縁取っていて、じぶんの地元のことや、中学時代までよくテトラポットのうえで鬼ごっこをしたことをおもいだし、5分ほどそのうえを歩いた、座った、もうすぐできるかもしれないじぶんの子どものことを考え、それから立ち上がった。決めなくちゃいけないことを、ちゃんと決断できる強さを持たないと、いまよりもっと生きていけない気がした。