カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


忘れてしまうようなやりとりが好き

友だちと遊びに行くことが2ヶ月に1回くらいあって、きのうは小説を書く友だちの佐川さんとR眞さんの3人で、神戸のチューリヒ美術館展にいってきました。


そういう展覧会的なイベントにだれかと行くことはほとんどなくて、じぶんで企画しておいてこういうものをだれかと見に行くってはたしてどうなんだろう、という疑問があった。詳しくはないけれど絵を見たり、見て何かをおもったりするのはとても好きだ、だけどそれはひとりでできてしまうし、ひとりだからできることかもしれない。とくにR眞さんはよくこういうところに来られる方だと聞いていたので、なにか迷惑をかけてしまったかもしれない、とかもおもった。ぼくはとりあえず、なんとなく3人で集まりたかったし、チューリヒ美術館展もついでにいけたらいいかぁってなぐらいしか考えてなかった。

3人でいったのはよかった。イブニングレクチャーで話していた学芸員さんの喋り方がおもしろくて、友だちが少なそうだった、とか、なんかこの作品が笑える、とか、芸術家の表現についてのあれこれにまったく関係のないところで話ができてよかった。表現こととかも、みんなそれぞれにおもったり考えたりしたとおもうし、芸術家のひとりひとりのことをおもったり考えたりしたし、実際、そういう話もぽつぽつしたような気がするけれど、なんというか、その場だけで忘れてしまうような会話をして、なんだかひさびさに息をしたような気がした。息ができた、というか。表現の守備範囲にはいるものに触れると、なんだかとてもものを考えなくちゃならない気がする。だから一人できたらとても疲れてしまったかもしれない。たのしかった記憶だけをもって、重たいものを気軽に置き去りにするのも(時には)いいのかもしれなかった。それが新鮮だった。


一過的なもの。何気ない、詳細はすべて忘れちゃうけど、たのしかったっていう記憶だけが鮮明に残っている、そんなことにそっくりなマンガを今日、たまたま読みました。

女子かう生 : 1 (アクションコミックス)

女子かう生 : 1 (アクションコミックス)

ヘルベチカスタンダード絵 (カドカワコミックス・エース)

ヘルベチカスタンダード絵 (カドカワコミックス・エース)


このふたつに関しては、それぞれ記事をひとつ使って詳しく紹介したいのですが、いわゆる物語の不在、女子かう生に関してはセリフがないのだけど、ぼくが昨日のことに感じた印象に正しくエピソードが編集されている気がする。それに関しての持論ははっきりあるのですが、それは疲れてない日に改めさせていただきたくおもいます。
きょう、言えるのは

女子高生は正義

だということだけです。

まちゃひこでした。