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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

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機械的なポエムの生産とチューリングテスト

よく考えることがあって、Jポップとかアマチュアのひとがブログで掲載しているポエムって、どうしてあんなに似たり寄ったりしているのだろう、みたいなことだ。
そういうのってだいたいなんとないハッピーとか、星とか、生き死にとか、世界とか、涙とか抱きしめるとか、そういう言葉を適当に切り貼りして作られているような気がする。ぼくは個人的にそういった類のポエムを、
「涙抱きしめる系ポエム」
と呼んでいる。それは、個人が彼・彼女特有の感性により生み出された言葉の選びでなく、たとえば「草食系男子」みたいな、一般の共通理解を得られたいわば、「パッケージ化された言葉」により構成されている。そもそも言語ってそういうもんじゃん?みたいな感じもあるし、ほんとうはもっと厳密な定義をもって発言が必要なことだけど、きょうは感覚的な疑問を書こうと思います。


たぶん涙抱きしめる系ポエムは、「詩っぽい形」と「詩っぽい言葉(=パッケージ化された言葉)」へ近づけるように作られるようにおもう。そういう形式への接近を意図したものだったら、きっと生産アルゴリズムを作ることは可能だ。その詳細について考えるのも面倒なので、どういう操作をすれば涙抱きしめる系ポエムになるか考えた。

  1. 適当な文節で改行
  2. 適当な対句を入れる
  3. 適当なタイミングで体言止め
  4. 適当に呼びかける
  5. パッケージ化された言葉の挿入

たぶんパッケージ化された言葉をリストアップし、これをあるタイミングで上のルールに沿ってランダムに挿入していくみたいな感じで、作れてしまう。そう考えると、こういうポエムはなにも人間じゃなくてもつくれてしまうような気がする。
じゃあ、
「機械にも詩作ができる=機械にも知性が持てる
となるかといえば、それは違うとおもう。
たとえば、リチャード・パワーズの「ガラティア2.2」という小説では、人工知能に読書させることで、そいつに文学批評をさせようとしているのだけど、それとはこの場合違っていて、あくまで既存のイメージの切り貼りでなされる「本物になろうとする偽物の演算」に過ぎない。いわば、ポエムという解を目指した逆演算をするようなもので、ポエムを作るということが目的とされている。これは根本的に詩作とは言い難い。

しかし、これでチューリングテストみたいなことをしたらどうなるだろうっておもう。

チューリングテストに関しては、みんな大好きWikipediaから引用します。
アラン・チューリングの1950年の論文、『Computing Machinery and Intelligence』の中で書かれたもので、以下のように行われる。人間の判定者が、一人の(別の)人間と一機の機械に対して通常の言語での会話を行う。このとき人間も機械も人間らしく見えるように対応するのである。これらの参加者はそれぞれ隔離されている。判定者は、機械の言葉を音声に変換する能力に左右されることなく、その知性を判定するために、会話はたとえばキーボードとディスプレイのみといった、文字のみでの交信に制限しておく[1]。判定者が、機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械はテストに合格したことになる。
「涙抱きしめる系ポエム」が、詩人の詩よりも優れていると読まれた時、これは通常チューリングテストでなされる「機械の知性」とは違う議論がなされるとおもう。この場合、「人間の感性が機械化されている」という逆の問題が浮上する。
そうなるとなにが怖いって、ひとは表現なんて必要なくなる、個人的なわたし、というあり方がますます難しくなる気がする。じっさい、今でもこういうポエムが広く受け入れられているとしたら、詩集とか小説が売れない理由ってこういうところにあるのかもしれないなって、まちゃひこは思いました。まる。


ガラテイア2.2

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