カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


第二十回文学フリマ東京のこと(その1)/タンクメイト(山本浩貴)について

文フリについて(その1)

5月4日に東京流通センターであった、第二十回文学フリマ東京へ「アマチュアで妥協」というサークルで参加し、らくせんvol.2という本を販売しました。ぼくらのブースに立ち寄ってくださったみなさま、そしてご購入いただいたみなさま、ほんとうにありがとうございました。そして、だいじな作品や絵・文章をらくせんに御寄稿いただいたみなさま、ほんとうにありがとうございました。

他のサークルの方々の作品や、参加してのおもうところはまた別の記事にまとめたいとおもうのですが、今回はおもに「らくせんvol.2」についてちょっと書きます。ちょっとした編集後記とおもってくだされば幸いです。いままで、なんとなくみっともない気がしてあえてこういう文章を書くことを避けていたのですが、個人的な小説への思うこともちょっと整理したい、ということもあり書いてみます。

 

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ぼくらのサークルは別に統一的な小説への見解を持ったりしているわけでもなく、そして組織としての活動などは一切やってなくて、ただ文フリの時期が近付いたら手持ちの作品を一冊の本にまとめるという「遊び」をやっているに過ぎません。文学賞の落選作であることを謳うことにも、既存の「文学」への反発の姿勢を“組織として”表明しているということもなく、ただそうした方がおもしろそうだから、という理由になります。すくなくとも、ぼくはそう思っています。

同時にぼくらがこの本に掲載する作品たちが、商業的に流通している本に比べ“劣っている”ともおもっていません。もちろん、個々に否定しがたいなんらかの欠点は抱えているでしょう。問題は、「らくせん」に掲載される作品たちが、文フリという場を離れ、「らくせん」という媒体のコンセプトを外してだれかに読まれたとき、それが読み手にとってどう価値づけされるのか、ということにあります。

そういう意味でひとつの可能性を提示してくれたのが澤雪さんの解説です。ぼくらが何を考えるとか考えないとかそういうものとは無関係に、どうしようもなく現代に書かれてしまった小説たちは文学という系譜のどこかに存在してしまう。かつて固体物理やら統計物理やらをかじっていたぼくは「自己組織化」ということばを想起してしまうのですが、構造というものはどうしようもなくミクロにもマクロにも生じてしまいます。作品と作品、作品と読者、作品と歴史、作品と世界、書かれてしまった文章と未だ書かれていない文章――考えられる相互作用の組み合わせはそれこそ無数にあって、それらのあいだに生じる相互作用について厳密に知る術をぼくらは人間であってしまったがゆえに知りえることはできないかもしれない、けれども知りえないからこそ生じてしまうこの余白へ踏み込むことこそ、小説の“ひとつの”可能性なのかもしれない、とぼくは考えます。アマチュアで妥協しているくせに偉そうなことをいいますが、この未知の余白へ踏み込む力を持っている書き手の方にお声をかけさせていただいてます。

廃刊をめざして創刊された「らくせん」ですが、vol.3が”残念ながら”発行されることになりましたら、みなさま、またどうかよろしくお願いいたします。

 

 

タンクメイト(山本浩貴)について――進化を促す小説について

らくせん掲載作へのぼくの雑感をいままでちゃんとだれかに伝えることをしてこなかったのですが、あえてそれを公開しようかとおもいます。これはらくせんを買ってくださった方々に向けて、というよりもぼく自身が小説について考えるため、という意味合いの方がはるかに強いものですが、ぼく自身、普段小説についてひとに話すことがすくなくなったぶん(文フリであった方にはオフパコの誘いぐらいしかしてませんでした)、たまには真面目なことも書きたいと思います。今回は山本浩貴くんの「タンクメイト」という作品を題材にしたいと思います。

 

 

この小説をぼくがはじめて読ませてもらったのはいまから3年半ほど前で、それまでのヌーヴォーロマンや金井美恵子のような言語的技巧を全面に出したかれの作風と異なる、なんて程度じゃなく、小説というもののとらえ方が根本的に変わっているというような印象を受けた。かれとはじめて話したときかれは卒業前の高校生で、ぼくはもうすぐ博士課程に進学する修士の大学院生で、年に1、2回ほど会って話をしたり、デイビッド・リンチの映画を観たり、ピタゴラスイッチの話をしたり、ルービックキューブのことを教えてもらったりするなか、いまは気がつけば5年近くなって、そのあいだにもうぜんぜんお互い違うことを考えるようになった気がする。

正直にいってしまえば、ぼくはこのタンクメイトという作品は、過去の名作と呼ばれた作品も含め、最も影響を受けた小説だった。そしてかれ自身が以降に書くことになる文章たちは、これが起点となったひとつなぎのものだとおもう。

かれがタンクメイトを書いていたときに考えていたことが、以下のブログにある。

hirokiyamamoto.hatenablog.com

 

「わたしは人間として生まれてしまった!」

改めてタンクメイトを読み、リンクを張った記事を読み直すと、文章を読む”わたし”が人間であってしまうというだれも気にしないような当たり前なことが、“作者ではなく文章にとって”どうしようもないくらい窮屈であるという事実が突き付けられる。

 

ぼくは今回の文フリで売り子をしていて、「らくせん」を手に取って10分くらい真剣に立ち読みしてくれたあと、買わずにブースを離れて行ったひとたちを10人くらい見たのだけど、そのときぼくはどうしてこの本が995円は高いのだろうと考えていた。それは「当然このくらいの価値はあってしかるべきだろう」みたいなそういう商業的な意味ではなく、どのようにこの本がその方々に価値判断されたのだろうという疑問だった。この疑問を一般化し、対象Aの価値判断という問題としてとらえると、それを行うのは対象Aと接する個人であり、個人は多様なあり方をしてしまう以上、常になされた価値判断は相対的なものでしかない。らくせんが995円ということに高いとおもうひともいれば、安いとおもうひともいるのだ。そしてその判断は個が持つ知識や経験に大きく依存する。そして既存の文章にとって、個は人間という種族のみに絞られてしまう。

 

話をタンクメイトに戻すとこの小説が問題にしているのは、価値判断のプロセスだとぼくはおもった。そしてそれは、相対的な価値判断でなく、絶対的な価値判断への移行を促すものだともいえる。

ここで価値判断を行う個体をとし、価値判断をなされる対象をxとおく。

図1で示したのは、個体Aの知識・経験の外側にある事象xをAが認知するまでに行われるだろうプロセスだ。この場合、Aはxをxとして認識することができず、だから事象xを自身が認識可能なx'へ変換する必要がまず生じる。f(x)と書いたのは、xAの領域へ写像する関数だ。

 

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図1:個体Aの従来的な未知の事象xの認識プロセス

 

このf(x)という関数のことを、たぶん文学では隠喩(メタファー)と呼ばれている気がする。過去の文学作品ではこのf(x)の精度であり、射程距離であり、そういったものが議論の中心になることが多かったかもしれず、そしてその議論は「人間(=A)」への言及に着地する。しかしこのプロセス・構造によりあらわになるのは、文章内でどうしようもなく生じてしまった事象xそれ自体を真実とした読み方の不可能性――そういった世界の存在の否定になるということだ。世界をメタファとしてとらえることは、同時にその世界を直視することを諦めるということを意味する。タンクメイトでは、小説が人間基準で読まれてしまうことによって生じる、小説世界、ではなく世界そのものの破壊に警鐘を鳴らしている。ぼくはそう思う。

ではどうしたら小説は守られるのか――つまり、タンクメイトが行っている(あるいは促している)、事象xxとしてとらえるプロセスは? ぼくが考えるに、以下の図2のようなものだろう。

 

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図2:タンクメイトが求める未知の事象xの認識プロセス

 

 つまり、個体Aがテクストという絶対的な環境に適応すること、もっと簡単に(そして過激に)いってしまえば、AがA’へと進化するということだ。図2におけるM(x)は、事象xにより促されるAの変換演算子みたいなものだ。そしてこの演算子は、絶対的に存在してしまう世界にたいする個体Aの進化という現象と解釈できる。タンクメイトが提示したこの認識プロセスは、メタファーという暗号的な文章との接触を棄却し、書かれてしまったすべての世界の存在を守りながら、現象として、あるいは自然科学として文章を読む、という行為をとらえることを可能にする。それによって、なにがどうなるかはまだ進化を前にした人間であるぼくにはわからない。この小説が”難解”であるといわれなくなるには、ちょっと寿命がたらない気がする。あと、あした仕事行きたくない。

 

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