読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

スポンサーリンク

第二十回文学フリマ東京/「東岸兄弟」(福田ミチロウ)について

読書 事務連絡

こんにちは、まちゃひこです。

今回は予告どおり、「らくせんvol.2」に掲載した、グンマ文学の金字塔である「東岸兄弟」という福田ミチロウさんの作品のことを書きたいとおもいます。

福田ミチロウ(自画像)

 

 

 

あらすじと福田ミチロウという書き手について

あらすじを書けるような小説が「らくせん」にはすくないのだけど、福田ミチロウさん(「アマチュアで妥協」内での)特徴のひとつとして、あらすじがちゃんと書ける話を書くということだ。見通しのよい物語を書く、というふうにいえるかもしれない。今回の「東岸兄弟」は以下のような話だ。

東岸美穂は、美穂を主人公とした小説を書こうとする友人の純子にじぶんの兄の観察日記をつけることを頼まれる。どうやら純子は美穂の兄に変態的な生態のようなものを求めているらしいが、しかし美穂の兄はちょっとしたアニメオタクに過ぎず、そして美穂との関係も悪くなく、純子が求めるような奇抜さは美穂の生活のなかにはない。美穂は適当にネットや雑誌に書いてあることを見繕って純子に見せるも、純子は満足しない。この観察・(真偽を問わない)記録・報告の反復により、すこしずつ現実と創作の境界が取り払われていく。

前号「らくせんvol.1」やWEB上にある彼女の作品を読んだひとであれば、今作はいつもより技巧的なつくりをしている、という風におもうかもしれない。ぼくはそう思ったのだけど、なにぶん、彼女は器用な書き手な気がする。こういう感じで~みたいなものがだいたい頭のなかに浮かんでくると、それができてしまう、“良くも悪くも”そんなタイプの書き手だ。でも、その器用さが彼女の書く小説の魅力ではないとぼくはおもう。今作をとおして、そのことを書けたらなあっておもう。

 

 

この世界に補助線を引く小説

小説のなかで作中作が登場し、入れ子構造をとる小説のことを「メタフィクション」と呼ばれるのだけれども、ぼくは今作はメタフィクションではないとおもう。というか、それは読み方の問題で、これをメタフィクションと読んでしまうととてもつまらなくなるだろう。

この物語で主人公の美穂は、テクスト化された生を生きているという自覚がある。そしてその自覚は純子が小説を書くという行為に誘発されて生じたものだ。いわばこれは、じぶんの生活に補助線を引くようなもので、それによりその補助線を境界とした内と外を別視点として認識することが可能になった。いわば、「仮想的な」メタフィクションを導入した小説とぼくは考える。

序盤から物語はこの補助線ありきで進み、それにともない、現実(私の意思)と創作(見えざる何ものかの意思)の相分離が美穂のなかで進んでいく。なんでもない日常の出来事も私は見えざる何ものかのを感じ取る。現実世界からテキスト化された世界が析出する。

しかし終盤、その補助線が外される。

それにより、現実世界と創作世界が混ざりあい、物語開始直後とちがった状態へと世界は向かい始める。現実から析出した創作世界が、平衡が崩れることによって現実世界を飲み込み、時間を超え、自身に適合するよう書き換え始める。

小説としての大枠の構造でいえばこのような運動が作中で生じているわけだけど、そもそもこの補助線がなければこういう世界の認知はありえないのか?という疑問が残る。というのも、書くものと書かれるものの区別を想定して描かれたこの世界は、そういう基準ありきで認知された「相対的な」ありかたで書かれているぶん、どうしてもこれまで読んできた「メタフィクショナルな構成をとる小説群」と比べ、「ありきたりな」印象をうけてしまう。

ものであれことばであれ、それらの存在の裏側には創作者がいる。そしてあらゆるものやことばはそういった「原理的な」メタ構造から逃れられない。個人的にこれはなんとなく20世紀以降の文学のコモンセンスのように感じられるのだけど、それを打ち砕くようなことを福田ミチロウはできたような気がする。という話を以下でします。

 

意味不明な自信に満ちた力強さ

けっきょく、福田ミチロウという書き手のおもしろさは技巧面にあるのではない。というか、福田ミチロウ自身、そういったものにほとんど興味がないんじゃないかとぼくはおもう。彼女の小説を読んでいて、今回いちばん彼女らしいなあと感じた一節を以下に引用する:

ひとつだけ確かなことは、私の行動全てに意味があるということだ。例えば、休日にぼんやりとテレビを観ることも、私にとって無駄ではない。それを考えると、じんわりと全能感に満たされる。私は私で、だけど私は私の意思で動いているわけではないという。しかし、私の思想は私のもので、いざとなればこんなくだらない小説なんてめちゃくちゃに壊してしまうことくらいわけないのだ。私は簡単に世界と心中できる。

福田ミチロウ,「東岸兄弟」

今作においてぼくがもっともおしいとおもったのは、 こういうことを簡単にいえてしまえる美穂が、小説の創作者というものに敗北しているように感じられたことだった。そしてこの敗北は、上述した「20世紀以降の文学のコモンセンス」に従順であるということ、ここに落ち着けば小説として綺麗に終わってしまう、という安心になる。

世界と心中できる、といえてしまう強さ、そしてじぶんが好きなものをなんの迷いもなく好きといえ、嫌いなものを嫌いといえてしまうこの強さが、小説が書けてしまう福田ミチロウの器用さによって薄められてしまっているのではないか、とおもう。

怖いもの知らずのぼくは、ヘタクソなミチロウが読みたい、というのがあります。


 ※次回、九十現音「Selftherapy」をやります


【関連記事】

第二十回文学フリマ東京のこと(その1)/タンクメイト(山本浩貴)について - たらんてら