カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


去勢と処世術

すぐ疲れがたまることはなにもいまにはじまったことじゃないのだけれど、ここ最近はちょっとしたことで息切れしてしまって、今週、ついに体調をくずして熱をだした。本格的に高熱になってきたのは夜中で、そのときはとても苦しかったから何度出たかなんてはかっていないけれど、あさ、目が覚めたときには測れる程度には回復していて、そのときは36.3℃だったからたいした熱じゃなかったのかもしれない。

熱が出ると関節が痛くなる、というはなし。よくぼくじゃないひとから聞いていて、そういうことがあるんだろうなとはおもっていたけどじぶんじゃ経験したことがなくて、だけど今回はやたらひざの関節がいたくて、立ったり歩いたりするととてもしんどい。けっきょく仕事を休むことにして、その日は一日中寝ていた。

 

 

ちまたでは、

 

とある過去にこわい事件を起こしたひとの手記が売られるようになったことが話題になっていて(ちまたというよりは主にネット上なのだけど)、それについての批判がTwitterのTLを埋め尽くしていた瞬間があったりして、その手記を買ったぼくがとてもわるいひとになっていた。や、ぼく自身が批判の矢面に立たされたわけじゃないし、直接的な批判をとくていのだれかから名指しで受けたわけではないのだけれど、出版に至るまでの過程であり、その手記の内容や文体について、そこから推測される書き手の「現在」などもろもろの入り乱れた情報のかたまりがこの手記を否定的にとらえる以外のあらゆる思考を許さない、みたいな雰囲気をつくっていた。書き手と、その内容に関わりがあるひとの当事者同士の諸々の問題についての重大性もわかるし、よく考慮(配慮)されなければならなかったことであることも明白だとおもう。ただ、ぼくはそういう当事者間の問題を、この一連の騒動の骨組みだけを見てなにかものをいうのは、素朴に嫌だな、とおもった。むしろ事実かどうか確定していない憶測でしかないことを断定して安易ともいえる嫌悪が充満しているこの状況について、居心地の悪さをおぼえる。それがパラノイアか世論かどうこうを考える気にもならないけれど、ただ、本の読まれ方、という点でちょっと絶望的なきぶんになる。

 

 

どんな本にも

 

なぜわざわざタイトルと著者の名前があるんだろうっていつもおもう。もちろん、じぶんが「読みたい本」を探すとか、そういう機能的な面で不可欠だってことをわかっていないわけじゃないけれど、それによって本の外側のことがひとり歩きしてしまうことが、なんだかな、っておもってしまう。それは本のジャンルについてもいえて、フィクションであるかあるいはノンフィクションであるか、なんて究極的にはどうでもいい。ひとによって本の読み方は違ってあたりまえで、他人にじぶんの価値観を押し付けるなんてことはバカバカしいのだけれども、なにが書かれていても本を読む以上、それをすべて真に受けるという大前提がぼくにはある。何が書かれていてもそれがリアルだとすれば、そこにフィクションかノンフィクションの違いはない。

「猟奇的殺人鬼の手記という内容の小説」と、「ほんとうに猟奇的殺人を犯したひとの手記」というものに、はたしてどれだけの違いがあるのか、とぼくはおもう。

このことはけっこう重大なことだとおもっているのだけれど、本の一段上の階層にある「エンターテイメント」という指向があるかあるいは「贖罪や告解」という指向があるかみたいなジャンルで区分けし、態度を変えるという読み方をすることを分別と呼ぶのなら、きっと世の中に本なんていらないかもしれないとまでおもえてくる。それは分別なんかじゃなくて、ただの処世術でしかない。本を離れた場所で、本を読む前にじぶんの姿勢を決めて、傷ついたり、なにかひとと違うことを感じてしまうことで批判をうけたりしないように、心を去勢しているだけだ。そういう態度でいることはけっしてじぶんの頭で考えたなんていえない、それは個人が考えたことじゃなくて、個人をとりまく枠組みが考えさせていることだ。

 

しかしこう考えてしまうと、いまぼくがこうしておもったり考えたりしているものもまた、ぼくをとりまく枠組みによって考えさせられていることだという考えから逃げられなくなってしまう。じぶんの考え、というのはどこにあるのかってすごく不安になるのと同時に、「じぶんが考える」ということがとても無意味に感じられたりもする。