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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

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視認しえないもの、解体から生じる詩――マグリット展の雑感など

 子どもの頃、私は一人の少女と遊ぶのが好きだった。とある小さな田舎町の廃用になった古い墓地のなかで。私たちは地下の舞喪失を見て回り、それらの重い鉄の扉を持ち上げることができた。そして私たちは光の下に再び上がると、そこには一人の画家が、首都からやって来て、墓地の小径で絵を描いていた。その小径はいかにも絵のようだった、折れた石柱があって枯れ葉が一面に散らばって。絵画芸術は漠然と魔法のように不思議に、そして画家というものは優れた力に恵まれていると、その時私には思われていた。

マグリット[1]

ルネ・マグリット「ゴルコンダ」(1953年)

ゴルコンダ(1953年)

 

 

チューリヒ展のときと同様に、

マグリット展には関西で小説を書いている友だち(佐川恭一さん、R眞さん)と三人で行ったのだけれど、おもえば二十歳をこえるまでは美術館にいくという習慣がなかった。はじめて学校の遠足とかそういうもの以外で美術館にいったのはたしか大学2回生の夏のときで、当時習っていたギターの先生の合宿でいった軽井沢だった。先生は東京と京都に生徒を持っていて、その夏の軽井沢の合宿というのはそれぞれの生徒たちの交流の場としてあって、いまはなかなか行けなくなってしまったけれど、かなり長い期間、継続してやっている。その合宿所のちかくの美術館でどうやらシャガール展をやっていたみたいで、それに何人かが行くことになり、ぼくもホイホイついていった。

このときはとくにだったのだけれども(いまもそうなのだけれども)、ぼくは絵が目の前にあって、それをどうすればいいのかわからなくなる。そりゃ見ればいいのだけれども、どのように見れば「鑑賞」となるかわからなくて、すごくなやんだ。周りのひとたちはおもいおもいに満足しているみたいだったけれども、どのように見ればかれや彼女たちのように絵を良いものとおもえるのかがわからない。へんなかたち。とかそういう感想しかわいてこないじぶんの文化レベルの低さに嫌気がさした。そういうことをとても憶えている。

いまでこそおもうことなのだけど、この感覚はバッハを聴いてしびれを切らしたり、ガルシア=マルケスの小説を読んで寝落ちしたりする感覚とまったくおなじなのだろうと思う。鑑賞、というのはそれを経験するまでの「わたし」がおもっている以上に敷居の高いもので、それをできるようになるには多少なりとも「トレーニング」がいるんだとおもう。…ということを考えると不思議なのは、むかしから絵を見て育ってきて、その鑑賞のトレーニングが無自覚になされてきたひととは違うひとが絵を鑑賞できるようになるには、絵を鑑賞したいとおもい、絵を鑑賞できる身体に成長しなければならないということで、その絵を鑑賞したいとおもうひとはどうして「絵を鑑賞したい」とおもうのだろうということがちょっと不思議だ。じぶんのことで考えると、単純に芸術に関するコンプレックスかもしれない。ぼくがおもしろいとおもえなかったものを「おもしろい」といえるひとたちには、まちがいなく嫉妬していた。

 

イメージの解体・再構築により生じるもの

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恋人たち(1928年)

 

マグリットという画家の名前は知っていたけれども、ちゃんとかれの絵をみるのは初めてで、「なんか岩が浮いてるあの絵のひと」程度の認識しかなかった。会場ではマグリットの創作を時系列にならってみることができ、ときどき彼の講演(生命線)の文章の引用を読むことができたりした。バルセロナのピカソ美術館とかがとくにそうだけど、ひとりの画家の作品を集中的に、そして時系列にそってみるというのはとてもたのしい。とくに、マグリットの初期作品が生まれた1920年代、文学ではダダイスムやシュールレアリスムが勢いをもった時代でもある。

 

ツァラ詩集

ツァラ詩集

 

 

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

 

 

ダダ・シュルレアリスムの時代 (ちくま学芸文庫)

ダダ・シュルレアリスムの時代 (ちくま学芸文庫)

 

 

 既存のパッケージ化された意味の解体、無意識下で直感している世界のありかたを真とした表現を目指すこれらの影響をマグリットの絵からつよく受けた。しかし、マグリットには即興的な絵はなく、むしろ深い思考のうえ、あるいは思考そのものとして作品を仕上げているという印象がつよかった。マグリットはAという対象と、Aとは対極にある対象を同じ絵のなかに共存させるといった構図を多用する。現実的な感性では共存しえないAとノットAを軋らせることで、既存のAやノットAというイメージを解体する。たとえば「生と死」や、「光と陰」。

 

光の帝国Ⅱ(1950年)

 

たとえばこの昼の空の下に夜景があるこの絵について、マグリットはこのようなことばを残している:

(前略)一枚の絵の構想、すなわち思考は、絵の中にみることはできません。思考とは、目に見えないものでしょう。1枚の絵の中で描出されているもの、それは目に見えるものです。つまり、思考の対象となるようなひとつ、もしくは複数の事物です。

 したがって、≪光の帝国≫という絵の中に表されているのも、私が思考の対象とした物です。すなわち、正確に言うならば、夜景と、日中に目にするような青空です。風景は夜を、空は昼を、それぞれ喚起します。

 この夜と昼との喚起は、私たちを驚かせ、魅了するような力を帯びているように私には思われます。私はこの力を、詩(ポエジー)と呼びます。この喚起がこのような詩的な力を持っていると私が信じているものは、何と言っても、私が常に、夜と昼とに対して最大限の関心を抱いているからです。しかしながら、どちらかが好きだとは感じたことは一度もありません。夜と昼とに対するこの大きな関心は、賞賛と驚異の感情なのです。

マグリット[2]

マグリット自身が何を考えて絵をかいていたかなんてむずかしすぎて一生わからないだろうけど、その可視性をまずなんらかの基準においていたというのはわかる。しかし気になるのは、マグリットがほんとうに描いたのは「目に見えるもの」なのか「目に見えないもの」なのか。絵は、あくまで思考の対象となる事物しか描出できない。マグリットはその思考の対象を並べ、その対象間の相互作用を詩(ポエジー)として取り出すが、それは思考と等価なものなのか……。

だけど、そういう小難しいはなしはどうでもいいのだろうけれど、詩という目に見えないどころか、個人の主観によって相対的にあったりなかったりするもののを、絶対的にあるものとして書くことは可能なのか、というようなことをぼんやりおもった。

いつも手元にないものをほしがってしまう。だからか知らないけど、やっぱり目に見えないものを見たいとしょっちゅうおもってしまうのかもしれなかった。

 

参考文献

 [1] 吹田映子, ルネ・マグリットの講演「生命線」と油彩画≪彼岸≫――陰を経て光の下に見出す<生>のイメージ より孫引き

[2] マグリット展公式図録 p180 より孫引き

 

マグリット展公式図録

マグリット展公式図録

 

 

 

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