カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


いまさら今回の芥川賞受賞作品【異類婚姻譚(本谷有希子)、死んでいない者(滝口悠生)】について

満足のいく読書

また一か月ほどブログを更新できなかったまちゃひこです。

最近はとても仕事が忙しいとはいえ、去年よりも仕事に「慣れ」ができたせいか、2016年はじぶんのなかでも満足のいく読書ができています。

何をどう「満足できている」か……ということについて、実はそういうことをおもったりかんがえたりするのって、満足、という実感があってはじめてなのかもしれない。読書での満足は、とうぜん冊数という考え方もあるのだけど、

「どれだけ一冊に時間を割くことができたか」

ということがぼくのなかでは大きい。ビジネスパーソンというひとたちが苦手なのだけれども、そういったひとたちの多くは単位時間あたりにみずからが摂取した情報量でものごとを評価しがちな気がする。文化だの芸術だの、ぼくはそういうことをいう気はまったくないけれども、上記のような情報流束みたいな考えではぜったいに説明のつかないものこそに価値を持ちたいなっておもいます。そういうこともあって、時間をかけたい本を時間をかけて読むことにこだわりたいなっておもいます。

 

 

 

芥川賞、才能というには遅すぎる

今回の芥川賞は本谷有希子【異類婚姻譚】滝口悠生【死んでいない者】の2作同時受賞でした。

 

異類婚姻譚

異類婚姻譚

 

 

ぼくは今回の候補に挙がった作品すべてを読めていなかったのですが、今回受賞された両名ははっきりいっていままで取れてなかったのがちょっと考えられないくらいのひとたちでした。都市や田舎、日常のなかにひそむ凶暴な欲求を駆動力とした物語を武器に何度も候補になっている本谷有希子、そして「楽器」という作品で新潮新人賞を受賞して以来、文体において新たな試行錯誤を提示し続ける滝口悠生。もうこのふたりがこれまでにしてきた仕事は「今後に期待したい」とかいうのがばかげているぐらい大きなものだとおもいます。

芥川賞じたいが「新人作家を対象とした短~中編小説賞」という色があるせいか、選評ではだれかがどこかで「才能」ということばを使いがちだ。もちろん候補に挙がった作家たちはそう呼べれてしかるべき片鱗を持っているだろうとはおもうのだけど、今回の受賞作を読んでみておもうのは、あきらかに才能ではなく「洗練」といったほうが適切におもわれるものだった。

とりわけそれが顕著だったのは本谷有希子だ。受賞作は、「夫婦が似てくる」という印象から始められる現代の怪異譚のような小説であるけれども、全編を通して感じるものは小説としての巧さだ。明らかに努力によって獲得されたものであり、そんなものよりも、ぼくはかつて本谷作品から放たれていた異様さ、おかしみ、乱暴さの方を才能

と呼びたい。たとえば、「生きてるだけで、愛。」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」のような作品などに対して使いたい。

 

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

 

 

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

 

 

芥川賞作品はおもしろいのか?

 

死んでいない者

死んでいない者

 

 

今回の受賞作2作のうち、「死んでいない者」はぼくはとてもおもしろいとおもったし、友人のあいだでも評価がめちゃくちゃ高かった。しかしネットでは、巷でよく見かける「芥川賞らしい小説」という評価でしかなかった。この評価は、「特に物語らしい物語もなく、だらだら日常が書き連ねられる純文学と呼ばれる類で私には理解できないもの」という意味で使われているのだけれども、こういう現状を見ると結構ショックだったりする。中には「死んでいない者」に対して、

「閉塞した文壇という環境をそのまま象徴したような受賞作」

などというひともいる。わりと世間では「もう本屋大賞以外に信頼できる文学賞などない」という読書家のひともいるようだ。

「死んでいない者」のおもしろさ、時間間隔であったり語りの構造であったりするものを、わざわざぼくはここで書いたりするつもりはない。この小説をおもしろいとおもわないひとは、この小説をおもしろいとおもうひとたちと小説に対して求めているものが根本的に違う。たしかにこういう小説をおもしろがるひとは少ないかもしれない。しかし、多いと少ないの違いは、いるかいないかの違いと等価ではない。少数でも確かにいる、こういった小説を時間をかけて楽しむことに幸福を感じれられる読者は、商業によって轢殺されてしまうのかとおもうと、それこそどうなんだとおもったりもする。

娯楽と価値、をつなぐものはなんなのだろう、などとおもいながら、息子をあやすまちゃひこでした。

 

 

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