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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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日記を書くこと/努力とは「やりたくないことをする」こと

今日のできごと

会社にいった。年度初めということで会社の総会があるときいていて、ぼくはそれが17時からあるとおもっていたら、出社したとき、同期の女の子が19時30分からだよって教えてくれた。うちの会社の定時は18時30分なので、むだな残業1時間を余儀なくされたあとに全員参加必須のその総会があることがゆるせなかった。

そんなにだいじな会議ならばそれこそ定時にするものだろう!とぷりぷり腹を立てていたら、インセンティブが安いとか、安くない買い物を強要してくる顧客とか、関係のないことまで腹が立ってきてぜったいどこかで仕事をサボってやろうといきごんだ。でも結局せかせか働いてしまった。

 

 

どうして日記を書けないのか

年に数回、たぶん季節に1回ぐらいだとおもう。日記を書こう!というなぞのやる気が湧いてくる。この「日記を書く」という動詞は、往々にして継続的なものとして使われるのではあるけれども、3日以上続くことはほとんどない。

書けない理由はたくさんある。

いちばんは「疲れる」。これにつきる。とにかく家に帰ると寝たいし、営業の移動時間とか帰りの電車とかで書けそうなきもするけれども、そういうときはなんかむりやり考えているだけってかんじになり、あとで読み返すと「ちがうなー」ってなって、けっきょくぜんぶ消してしまう。

そしてもうひとつは、「とくに書くことがない」。ふしぎなのはこっちで、1日24時間、まる1日寝ていたとかそういうわけでもないのに、1日のことをなにもおもいだせないということがばかにならないくらいにある。というか、まる1日寝ていたとしても、夢をみればなにかしらの日記はかけてしまうのだから、そうおもうと日記をかけない1日ってちょっとこわい。なんというか、やばい。

ここ2年ほどは働くことが生活のまんなかにきていて、仕事のなかでおもったりかんがえたりすることはたしかにあるのだけれど、別に社外秘のあれこれがあるからここに書けないとか関係なしに、とくに日記として書きたいようなものはびっくりするくらいにない。あるとしたら、「あいつむかつく!」「給料!」「あの会社倒産すればいいのに!」くらい。いちおう、給料分は働かないと!みたいな危機感はあるひとなので、じぶんの売り上げとか気にはするし、インセンティブがあるから達成とかも人並みにこだわるけれど、それじたいにおもしろみというのはかんじない。「別に……(さわじり風)」てきなかんじ。

日記を書こう!なんておもってとりあえず日常を俯瞰的にみてみると、びっくりするほどのじぶんの無気力さにあきれてしまう。おもいっきり、じぶんの人生が会社に食いつぶされている気がしてこわくなる。日記をかけない1日というのはやっぱりやばい。

だから、これまでみたいに漠然と

「日記を(継続的に)書く」

ということを目標するのではなく、

「せめて日記に書ける程度の1日にはする」

ということを目標にした方がいいようなきがした。

 

新入社員のころ

そういえば、しれっとうちの会社にも新卒がはいってきた。12人か13人くらいだってきいているけれど、はっきり覚えていない。とにかくきた。喫煙所で上司が、

「ことしはひとりむっちゃかわいいこがいる!」

といってた。2年目の女の子に謝ったほうがいいとおもった。

入社式は先週に終わっていて、きょうかれらはメーカーの研修にいっていた。入社式のとき、ぼくらはひとりひとり、「この会社での抱負」を言わされた。

このとき、ぼくは

「人生で一度も努力をしたことがないので、努力したいとおもいます」

みたいなよくわからないことをいった。

いってみたものの、ぼくは「努力」というものがよくわからない。

わかりやすいものでいえば、受験勉強とか研究とか、そういうものになるのかもしれない。どちらも、平均以上に時間をかけたとはおもうけれど、それが努力だったかどうか、ぼくにはわからない。どれだけ時間をかけたかが努力の指標じゃないし。

努力、ということばをきくと、ぼくは真っ先にゲルマニウムの夜(花村萬月)っていう小説をおもいだす。

ゲルマニウムの夜王国記I

ゲルマニウムの夜王国記I

 

 この小説では、主人公(♂)が先輩(♂)に口淫を強要されるみたいなシーンがあって、そのなかで主人公は

「努力とはやりたくないことをすることだ。おれは今日、人生で一番努力をした。おれはもう2度と努力なんてしない」

みたいなことをおもう。ぼくは、努力、ということばからくる印象で、このシーン、このことば以上にしっくりくるものをしらない。ぼくは苦痛を耐えたりするする経験はいちどもしたことがなかったし、勉強のたぐいはあくまでじぶんが好きだったからやっていたにすぎない。世の中で苦痛の代名詞としていわれる「受験勉強」だって、ぼくにとってはそれなりにたのしかった。

会社員になること、営業職として働くことは、当時(といってもたかだか2年前だけど)のぼくにとって、はじめて意識的に選んだ苦痛だった。

意に反して頭を下げること、理不尽なことをふっかけられること、じぶんの力ではどうにもならないことに振り回されること、暴力的に振りかざされる「コミュニケーション」という正義に平伏すこと。

2年のうちにあった、特筆するまでもない陳腐な苦痛をくぐりぬけることが努力だったのかどうかはわからないけれども、苦痛らしい苦痛を受けた、という実感はある。

でもできることなら、こういう努力はしない方が賢明であるような気もする。

やっぱり、やりたくないことはしたくないなっておもった。

(新卒のみんな、がんばるんだよ……)

 

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