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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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【感想】詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ(最果タヒ)」/「伝える」ではない、「表現」という行為

どんなに因数分解したって理解を得られないだろうそんな感情が、その人をその人だけの存在にしている。(あとがきより引用)
最果タヒのあたらしい詩集を買うために生きていた先週だったので、ちゃんと買える人生でよかった。ぼくは詩をわかりたいといつもおもうけれど、かのじょの作品にかかわらず詩となづけられたものを理解できたためしなどなかった、しかし、それがぼくにとっての「詩」というありかたをしたものたちが持つ魅力なんだとおもう。

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ことばは道具なんです、情報を正確に届けるための、ひとが適切なコミュニケーションをとるための道具なんです、ということばにいつも違和感があった。ことばの生態的なふるまい、なんていうとやっぱりどうもうさんくさいから道具だと認めてしまうことにしても、ことばをつかうすべての試みが、整然とした形をとった「伝える」という行為に回収される「べき」と主張するひとたちの正しさに、いつも息苦しさを感じていた。そいつをたぶん、表現欲とかいうんだろう。

伝えることと表現のちがいは、きっとコミュニケーションの次元にあるのだとおもう。ぼくは創作に孤独は必要だと信じるけれど、それを文学にコミュニケーションは不要、みたいなことに等しくなるとはおもわない。なんども否定しようとしたけれど、やっぱり作品は読者とのなんらかのコミュニケーションにより完結されるのだとおもうようになった、それが手を差し出すようなやさしさであろうと、徹底的にうちのめすきびしさであろうと、すべてのそういったものをコミュニケーションであると、やっぱり認めなくちゃならない。
おもうに、伝える、という行為は意味が大前提にあるけれど、表現、という行為には意味というものが必要とされない。しかしそれでも詩や小説、絵や音楽や踊りなどが無意味じゃないのは、その行為のすえにできた作品にひとびとが意味を見出すからだ。最果タヒの詩は、ぼくがここでいった「意味」を、そのまま「感情」ということばに置き換えたものになる。

夜空はいつでも最高密度の青色だ

夜空はいつでも最高密度の青色だ



かのじょは詩に、死、生、愛、世界、といったことばを多用する。正しくは、多用するようになった。もっと正しくは、多用することをためらわなくなった、かもしれない。そしてそれによって良くも悪くもかのじょがわかりやすくなってしまった。むかしは、なんていいたくないけれど、どことなく、かつてもっと痛々しいほどに純粋だった表現に、どこか「伝える」という行為が濁りをあたえているようにかんじられた。それかあるいは、ぼく自身が、死、生、愛、世界、といったことばや付随するイメージに共感することをつよく拒んでいるか。

今回の詩集には、ずっとむかしにネット上で読んだ「うさこ、戦う」が収録されていてうれしかった。
悪いゴジラかいいゴジラか私だって知らずに戦っているよ。私の暴力にきみの名をつけた。それが愛ってことで、もういいだろう。(うさこ、戦う)