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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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【感想】小説「羊と鋼の森(宮下奈都)」/調律師の言語と文学賞の話

読書

表現とことば

 

羊と鋼の森

羊と鋼の森

 

 

フランスの作家ル・クレジオは表現について、「じぶんの内なる外国語を探す行為」といった。かれのいう「外国語」は、他者との意思伝達ツールや物質的な何かを具体的に指し示すものとは一線を画していて、それは表現者自身の生命を形づくるもの、あるいはそれが表面化した結晶なんだと自身のエッセイで語っていた。

とうぜん、かれのいう表現とはなにも文章表現にとどまったものではなくて、言語ということばの射程距離はあらゆる活動をも含んでいる、たとえば、絵画には絵画の言語があって、映画には映画の言語があって、音楽には音楽の言語がある。「羊と鋼の森」の作中では原民喜のこんなことばが複数回にわたって引用される:

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体。

ル・クレジオにならって表現というものを考えるならば、この「文体」というものこそ、うちなる「外国語」の結晶になるだろう。ただ、本作ではそれがひとのなかにあるものとは限らないかもしれないという可能性をあたえてくれる。ごくごく普通の家庭や学校、コンサートホールにあるピアノのなかに眠っている「外国語」を探しだすこと。そのような「調律師としての言語」が作品の中核に据えられている。

 

物質的恍惚 (岩波文庫)

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物語について

この小説は音楽経験を持たない青年・外村が、高校時代に偶然出会った調律師・板鳥の仕事に魅せられ、調律師を志すシーンからはじめられ、調律師としての成長が描かれている。といってしまえばそれまでになってしまう。物語としての大きな起伏はなく、主に調律師としての顧客や従業員とのやりとりを中心に小説は展開され、語られるものは音楽とひとという距離だ。

でも、調律師の仕事は、ひとりでは完成しない。そのピアノを弾く人がいて、初めて生きる。だから徒歩でいくしかない。演奏する誰かの要望を聞くためには、ひと足でそこへ行ってはだめなのだ。直せないから。一歩ずつ、一足ずつ、確かめながら近づいていく。その道のりを大事に進むから、足跡が残る。いつか迷って戻ったときに、修正も効く。誰かのリクエストを入れて直すことだってできるんじゃいか。たくさん苦労して、どこでどう間違ったか全部自分の耳で身体で記憶して、それでも目指すほうへ向かっていくから、人の希望を聞き、叶えることができるのだと思う。

p.122

この小説は、音楽小説ではない。ここで描かれる調律師というひとたちはじぶんのことを音楽家だとはおもっていない。音楽や音楽と接するひとたちのあいだで生きているけれど、かれらの仕事というのは音楽へ向かっているのではなく、ひとの方へ向かっている。じっさい、僕(=外村)の一人称で語られるこの物語では、ほとんど音楽が表現されていない。それは外村が音楽的に無知だからというのもひとつの理由としてあるかもしれないけれど、それ以上に、表現としての音楽にこの物語が接していないからだ。作中で描かれるのは、あくまでピアノの音だ。

この「どちらかといえばひとに寄り添った物語展開」「音楽でなく、ピアノの音へ向かう描写」のふたつが混ざってしまったことが、この小説の惜しいところにおもえた。このふたつが相反するものだというわけじゃなくて、単純に、ふたつが相殺しあうことで物語が描く世界の異質さが取り払われているように感じたからだ。

これは作品が持つ思想が問題なのではなくて、書き方の問題だとおもう。読みやすさや、わかりやすさの点で本作はよくできているけれど、それゆえにこの小説固有(あるいは調律師というもの)の「外国語」が損なわれているようにおもえてならない。

特に、調律師という仕事を描写するにあたっての「執着」が感じられなかった。職人としてのこだわり、といえばわかりやすいかもしれない。ピアノの音ひとつ、仕事道具ひとつ、ピアノの内部構造の詳細、それらに対する執着がなくて、気の利いた耳障りの良いことばに物語が巻き取られているという虚しさをどうしても感じてしまう。もちろん、ぼくのいう「執着」を描くことでかなり読みにくくなってしまうだろうし、それで小説の敷居がぐんと上がってしまうだろう。というか、そういう内容のすべては意図的に避けられているような気がする。だけど、それを描くことなしに、「調律師」というひとたちが持つ表現者としての言語を見出すことできない。

 

もちろん、これはぼくの主観的な意見。

ほかのひとのレビューもいろいろ読んでみると、もっとこの小説が楽しめると思います。

 

d.hatena.ne.jp

www.dokusyo-geek-ki.com

h-idayu.hateblo.jp

nashino13188.hateblo.jp

 

直木賞選考回での選評

実はこの小説、第154回直木賞候補にも上がっていて、選考会では大きく意見が割れている。

prizesworld.com

文学賞についておもうことなのだけど、ふだんブログとかTwitterとか見ていると、直木賞(あるいは芥川賞)作品なのにおもしろくない!とかそういうことばに遭遇することがある。だけど、文学賞は賞によって評価ポイントも選ぶひとも違うし、そもそもどういう仕事を讃えるのかもそれぞれに異なる。それを、じぶんの基準で「あの賞はダメだ」とかいうのは良くないし、重要なのは、じぶんがおもしろくないと感じるものに出会ってから一人の読者として何を考えるかっていうことだとおもう。ぼくにとって、それが読書の醍醐味だ。

話を直木賞に戻すと、選評で賞賛しているのは北方謙三と伊集院静のふたりで、こんな選評を残している:

 

「主人公がはじめて調律というものを見て、引きこまれていくところから、私は予期していない世界に入りこんだ。調律という行為も、表現だと思えたのだ。」「静かな中に緊迫感が漂い、行間からさまざまなものが溢れ出してくる。」「これは推したい、と私は思った。」

北方謙三

 

「私は常日頃から、みずみずしい文章の作品を書きたいと思っているが、なかなかそういう文章は書けない。宮下さんの小説には、そのみずみずしさが失せることがなかった。」「他選考委員から作品の世界がやや小振りだという評が出たが、そんなことはない。こんなに悠久を感じる作品はない。」

伊集院静

 

この2名は本作の物語性でなく、文章や作品が持つ思想を高く評価している。

それに対して、受賞に反対の選考委員は以下のような選評を出している:

 

「ピアノの音が作者の身体のなかで鳴っているのが感じられるような種々の表現は、どれも静謐でうつくしいが、そこから広がってゆかない。作者はピアノの音に耳をすますことはできるが、残念ながら人間に見入るということができていない。」

高村薫

 

「私には物足りなかった。主人公の内への向かい方、登場人物のキャラクターが、少女コミックに思えてくる。音楽を寓話にまで高めるには、いろいろなものが足りない。」

林真理子

 

「私には古典的な成長小説、もしくは自然主義風の日常小説というほかに、さしたる感懐はなかった。」

浅田次郎

 

「純文学の要素がいかに優れていようとも、それを評価するのは本賞の本来の役割ではないと私は考える。まずは大衆文学の要素が他の候補作を凌駕しているかどうかを判定すべきではないか。その点において『羊と鋼の森』は、私には合格点に達しているようには思えなかった。調律師の仕事内容や環境について書かれているが、その上に読者を楽しませようとするドラマが構築されていない。」

東野圭吾

 

基本的にそれぞれがそれぞれ言い散らかしている(!?)だけのようにも見えるけど(個人的に高村薫の選評は「何言ってんだコイツ」っておもう)、文学賞の性格を叙述に表しているのが、東野圭吾の選評だろう。

そもそも「大衆文学」と「純文学」のちがいは何か。みんな大好きWikipediaではこんな感じになっている。

大衆小説(たいしゅうしょうせつ)、大衆文学(たいしゅうぶんがく)は、純文学に対して「芸術性」よりも「娯楽性」に重きを置いている小説の総称。「娯楽小説」「娯楽文学」も同義語。「通俗小説」「通俗文学」とも呼ばれた。

大衆小説 - Wikipedia

 

純文学(じゅんぶんがく)は、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語。

純文学 - Wikipedia

どうやら、娯楽性と芸術性というふたつの軸が小説にはあるらしい。そして東野圭吾は「物語を構築する技術」を娯楽性と呼んでいるようだ。多くの文学賞は何らかの技術や”才能”に対して与えられる。言い換えると、芥川賞や直木賞については、当選作品を選ぶためには技術的裏付けが必要になってくるわけだ。

しかし本屋大賞が特殊なのは、小説を書くという技術に与えられるのではなく、あえて乱暴に言えば「好きか嫌いか」だけに集中して選出される点にある気がした。なので、芥川賞や直木賞に比べ読者からの「なにこれ?」的な感想が少ないのかもしれない。まぁ、あくまで憶測なんですが。

 

でもぼくは、芥川賞やら直木賞やら本屋大賞やら、どれが偉いとかそういう順序づけはするべきでないし、できないとおもう。というか、評価軸が全部ちがうし、そもそも本の楽しみ方も一冊一冊異なる。文学賞受賞作品として小説を読むのならば、選評と照らし合わせて、いままでにじぶんがしなかった本との付き合い方を探すっていうのがおもしろいんじゃないかなぁって、ぼくはおもいます。

ともあれ、本がたくさん読まれることは嬉しいことです(何様)。

 

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