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カプリスのかたちをしたアラベスク

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感想「ガラパゴスの箱舟」(カート・ヴォネガット)/とくべつじゃない、死者のことば

 
 
※このエントリーには小説「ガラパゴスの箱舟」の内容に関する言及があります。
 
 
この土曜日はとてもおだやかで、朝は10時まで眠った、息子も目を覚まさなかったし、嫁氏も目を覚まさなかった。休みの日はふだん、平日よりもはやく起きる。眼が覚めるのは決まっていつも5時半くらいで、平日だとそこからもう2時間ほどねむるけど、休みの日はそれをしない、なんとなく、時間がもったいないようにおもうからだ。目覚ましをセットすることをやめて1年ほどになる、この1年、毎日5時半に一度目を覚まし、それから二度寝したりしなかったりした、二度寝をしない生活を生きたいとおもった。
しかしこの土曜日はいちども目を覚ますことなく10時まで眠って、起きたときふしぎな気分になった。大学生のときの出席を取る一限の授業を寝過ごしたようなあわただしさもなく、ただ、時計の針が1秒過ぎていく感覚だけがあって、それにたいしてぼくは時計の針が過ぎていく実感以外になにも持てず、ただ、息子と嫁氏の時計の針のような寝息を聞いていた。

 

ガラパゴスの箱舟 (ハヤカワ文庫SF)

ガラパゴスの箱舟 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

ヴォネガットを読みたくなったのは、こういう時間の感じ方をしたからかもしれなかった。ヴォネガットの長編小説のかたりてにとって、時間というものはぼくらの常識で認識されていない。
 

 

「スローターハウス5」のトラルファマドール星人に代表されるような、定常的なながれでなく、空間的な広がりとしての時間のなかを語り手は奔放に駆けずり回る。時間が場所と同義になることで、死者が永遠の死者であることをやめる。死んだ者へ会うのなら、ある時間で死者であるものが生きている時間にいけばいいだけだから。時間が大地となることで、生と死が地続きとなり、一方通行でもなくなる。「永遠」ということばで隔てられる生と死の距離は有限の距離へ変換される。
 
頑強な生き残りかを自慢する人間がおおぜいいる。まるでそれがうんと特別なことのようにね。それがいえない人間は、実は死人だけなんだ」
カート・ヴォネガット,「ガラパゴスの箱舟」
 
「ガラパゴスの箱舟」では生と死のちがいから「とくべつ」が奪われ、死者が死を生き、死者が死者として語り始めるながい、ながい物語だ。
 
1986年、終わりに向かう人類の文明のなか、あたらしいノアの箱舟として大海原に投げ出されたバイア・デ・ダーウィン号の乗客たちは、何世代もかけて100万年後、果てしない退化をすることになる。そういうこの物語の100万年の歴史をなぞると、これは知性をうしない、自然にかえる物語におもえる。人類の脳は縮小し、海の中に生き、手足はヒレになり、流線型の体格になる。しかし作中、この人類の変化はあくまで進化とよばれる。そして終盤、ダーウィンのこんなことばが引用される。
 
進歩は退歩よりもはるかに普遍的である。
 
進化とはなにか。あたらしいノアの箱舟、バイア・デ・ダーウィン号には人類のすべての知性と同等に扱われるマンダラックスという象徴的な機械も積み込まれているが、それも終盤、それを嫌悪したまもなく死のうとしている船長の手で海の底に沈められてしまう。ただ、物語の語り手レオン・トロツキー・トラウトによれば、人類はあくまで進化し続けている。知性のすべてをかなぐり捨てることはこの物語にとってはあくまで進歩である。あたらしい祖先となる食人種族の少女たちが妊娠に幸福をおぼえている。そこに
 
最も幸福な人生は無知の中にある、
悲嘆と歓喜をまなぶ以前に。
ソフォクレス(紀元前四九六−四〇六)
 
という引用がつけられる。
進化とは最適化で、最適化とは、ある評価軸を設定し、それを最大化する演算をいう。人類の幸福を評価軸としたとき、この物語で人類は「ひとであることをやめた」。
しかしそのなかで100万年、死者として生き続けてしまったレオン・トロツキー・トラウトがひととしてとりのこされる。かれはもう文明などないこの惑星で、だれにも読まれることのない物語を、だれにも読まれないかたちでことばで記していく。かれの父親は、無名のSF作家だった。作家としての父親を知るものに会うことはほとんどなかった。しかし、バンコクで父の小説を知る医師と出会い、レオンは泣いた。物語やことばは、いつか読まれることを夢見てその場にとどまり続ける。消えさりゆくことばや未知の言語がたとえ死者と変わらなくても、すくなくともレオンは死者として生きて、語ったのだった。
 
 

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