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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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ピカソ、天才の秘密展(あべのハルカス美術館)へいってきた/鑑賞と創造

美術 日記

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扇子を持つ女(パブロ・ピカソ,1905年 油彩/キャンバス)

 

ずっといこういこうとおもいつつ、まだ日程あるわーとおもって先延ばしにしていたピカソ展、きがついたらもうすぐ終わってしまいそうになっていたので、このまえ急いでいってきた。いままでにも何度かブログに書いているけれど、ぼくは絵がわからない。どんな絵がいいとかわからない。それだけじゃなくて、ぼくが好きだなーっておもったりした絵があったとしても、それが好きだといいきるだけの自信がない。

 

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com

 

 

ピカソを観る

岡本太郎の著作「青春ピカソ」には個々の作品についての言及ではなく、その芸術家としての特異さ、力強さが語られている。

 

青春ピカソ (新潮文庫)

青春ピカソ (新潮文庫)

 

 

岡本太郎によると、ピカソの芸術は19世紀以前の絵画から技術的な大きな断絶を経て君臨している。抽象度の高いかれの作品はそこに「何が」描かれているかは一見してわからない、批評家が女の絵だと解釈したものが実は静物画だったなんてこともあるように、ピカソの絵は世界観と絵画的言語が直結しているようにおもえる、それは作品モチーフがなにかを語るのではなく、絵画そのものが世界を語るということになるんだと僕はおもう。

創るとは決してキャンバスに向かって筆をとり、絵の具を塗ることだけではない。それはまったく形式的で素朴な考え方だ。己れの世界観に新しいホリゾンを打ち開くことが実はクリエートなのである。真に芸術作品に対した場合、鑑賞者は己れの精神の中に何らかのセンセーションによって、新たに何ものかが加えられる。というよりもむしろ己れ自身に己れが加えられるのであるが。精神は創造的昂揚によって一種のメタモルフォーゼを敢行する。だから芸術作品と対決する以前と以後の鑑賞者の世界観、平たくいえば物の鑑方自体が質的に飛躍するのである。つまり創造であって、そのような創造の場なしには芸術、並びに芸術鑑賞は成り立ち得ないのである。

岡本太郎,「青春ピカソ」

岡本太郎の芸術に対するこの解釈は、絵(芸術)なんて門外漢、それどころか絵をろくろく描けもしないぼくにとってのひとつの希望であると同時に、なんらかの「創る」という行為を持つすべてのひとにとって非常に厳しいことばになる。というより、このことばを前にしたすべてのひとは直ちに「創るひと」となってしまい、そして「創る」という行為から逃れられなくなる。かんたんにいえば、ぼくらは「平凡である」ことを許されない、なにかに触れることで自らの世界を更新しなければならないし、それが誰かと似ているなんてありえない、絵がわからないということは、その「だれにも似ていいない私の世界」を黙殺してしまっている ということなのかもしれない。

 

ピカソという歴史

スペインに2週間くらい旅行したことがあって、そのとき、ピカソの絵をたくさんみた。とくにバルセロナにあっピカソ美術館に、作品ひとつひとつについては、やっぱりふーんとおもったのだけど、それ以上に、「ピカソという芸術家」という途方もなく大きな存在に戦慄したことをよく憶えている。

 

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闘牛場の入り口(パブロ・ピカソ,1900年 パステル/厚紙)

 

幼い頃から絵の才能を発揮していたピカソは早熟の少年だったとよく知られている。若くして高度な絵画技術を持ち、それゆえにかれの父が筆を折ったなんて話もある。バルセロナのピカソ美術館は今回のピカソ展と同様に、少年時代や青の時代と呼ばれる初期作品が充実している。時系列にかれの作品を鑑賞することで驚かされることは、ひとりの画家の作品から「絵画の歴史」を感じてしまうことだった。ひとりの人物の仕事が、歴史そのものに見えるなんてことはまずない、それは早熟であったこと、作品数が異常なほど多かったこと、そしてピカソが長生きだったからこそ、できたことに感じる。

 

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海辺の人物(パブロ・ピカソ,1903年 油彩/キャンバス)

 

展覧会の展示パネルには

「ピカソは現実を重視した」

というようなことが何度も書かれていた。

傷ついて死んでしまった友人のことであり、華やかなパリの街で陰のように生きるひとであったり、「青の時代」と呼ばれる作品群ではそのような感傷的なモチーフが多く使われていた。この時期のピカソが青を多用した理由は単に青しか絵の具がなかった、などという怪しげなものをはじめとして数多の説があるらしいけれど、モチーフと色調がその感傷を強調している、というよりもむしろ、モチーフと色調に絵が支配されてしまっている気がしないでもない。正直、個人的な好き嫌いでいうならば、この時期のピカソをぼくは好きになれない。みずからの絵が持つ力よりも、モチーフや色調といった外部的なものに頼りすぎているようなきがするからだ。

 

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読書するコルセットの女(パブロ・ピカソ,1914-17年 油彩、砂/キャンバス)

 

ぼくが好きなピカソは、キュビズムというものが始まった以降のものになる。

キュビズムでは一枚の絵のなかに複数の「眼」が存在し、それぞれの眼が持つ世界が描かれる対象を切り裂くような凶暴さがある。作品として対峙する一枚の絵は、多数の世界が混沌としながら詰め込まれている。決してそれらは共存しているわけではなくて、画面を区切る幾何学模様が、世界と世界の軋りそのものにおもえる。

世界を捉える複数の眼の暴力がモチーフを食い尽くそうとするこの凶暴さは、まさに岡本太郎が言及している「創造」そのものなのだろう。現実が創造に喰らい尽くされてしまったら、そのように表現されたものをぼくらはきっと理解なんてできない。何が書かれているかなんてわからない。わかるとすれば、現実という世界が一人の芸術家に解体されているという現象が今起こっているというぐらい。でもそれが、創造の核になるものなんだとおもう。