カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


ただ生きているということが、どうしてひとを物でないなにかにしてしまうのか

先日、小さいころからとてもよくしてくれた母親の叔母が亡くなって、きょう嫁と子どもといっしょにお葬式にいってきた。お葬式は2年と3ヶ月ぶりだった、まえは嫁のおじいさんが亡くなったときで、ぼくがいまの会社に入った次の日にあった。きのうは人事発表があってぼくの退職が社内広報された。

大叔母のお葬式は、大叔母の住む街のセレモニーホールでおこなわれ、ひとつまえのお葬式はおびただしい数の喪服の暑そうなおじさんがあふれていた。ぼくらより先にきていたお母さんは、あれは大企業の重役が死んだんだ、といった。造花を片付けるセレモニーホールのひとが開けて閉めたドアの隙間から見えた遺影は、ぼくより20歳くらい歳をとっていた。まだ在職だった。


「ぼくが仕事を変えるとひとが死ぬんです」
なんてことはいえるはずもなくいう気もないので、いっそだれかがいってくれればよかった、大叔母は91歳まで生きて、そして最後まで頭はしっかりしていて、記憶もたしかだった。おおきな病気にかかることもなく、老いて死んだ。大往生だった。控え室ではだれも泣いていなかったし、政治の不満をいったり、新卒で仕事を始めたいとこの話題になったり、ぼくの息子がたくさんのおとなに遊んでもらったりして、ほとんどのひとはごきげんで、きのう大雨になるつもりだった空がすっきりと晴れた。クーラーが夏みたいにかかっていた。


告別式のお坊さんのお経はぼくの実家の宗派とも嫁の実家の宗派ともちがっていた。死んだひとの終の住処でのお葬式しか知らなかったから、声の響き方からお坊さんのとおさ、お焼香のはやさ、座布団に正座じゃなくて椅子に座っていることさえなにもかもお葬式じゃないみたいで、かなしいとか、なんというか「お葬式感」のようなものがあるようなないような、ぼくらの頭上をあいまいに漂っているような落ち着かなさがあった。鐘がゴーンとなったとき、息子が3回おおきな泣き声をあげて泣き止んでそのままねむった。お坊さんが退場してある程度みんなが自由に話せるようになったとき、ねむる息子を覗き込んで、
「ほんとうにいい子だね」
とたくさんのひとがほめてくれた。


棺が開かれた。遺体を見るたびに、ひとは死んだら物になるんだと痛感する。嫁のおじいさんが亡くなったときも、ぼくのおじいちゃんがなくなったときもそうだった、どうしてただ生きているということが、物でしかないはずの肉体に、物ではない何かを意味付けできてしまうのだろう。
息子はこの箱のなかのひとが、1ヶ月前にあったおばあちゃんだとはわからない、生涯おもいだすこともできないだろうけど、ある意味でぼくも大叔母を息子のようにみていて、1ヶ月前にあった大叔母とはとてもおなじだなんておもえなかった。となりで母が泣き、叔母が泣いていた。いとこの女の子が泣いていた。泣いていなかったひとたちがしずかに涙を流していた。

棺が閉じられ、運ばれていった。