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カプリスのかたちをしたアラベスク

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アニメ「くまみこ」最終回の炎上/みんな所有欲が強すぎる

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※このエントリーはアニメ「くまみこ」最終回のネタバレを含みます

 

くまみこ視聴してました

「くまみこ」は今期でも脳みそを使わないアニメ枠としてまったり観ていた。都会っ子クイズや、ユニクロでヒートテックを買ってくる、ヴィレッジバンガードなど、横文字の暴力(!?)の使い方がおもしろいなーって思っていた。ぼくもかなり田舎の出身なのだけど、田舎者と都会っ子の違いは「◯I◯I」が読めるか読めないかだと今も信じている。

ただ、どうもこのアニメのまちのコスプレを含むアイドルネタやくまで村プロモーションネタが好きになれず、一生都会っ子クイズやってればおもしろいのに……なんてことを思ったりもしていた。

そんななか、TwitterのTLでは最終回が炎上しているときた。超絶バッドエンドだの、原作者が苦言を呈し、脚本家が飛ぶとかなんとか。その時はまだ最終回を見てなかったのだけど、「え、どうやったらそうなるの?」感がすごいあったのですぐに観た。

ぼくは「くまみこ」の原作は読んだことはないし、だからどのお話がアニメオリジナルかはわからない。

原作との齟齬なんて知らないし、そもそも原作とメディアミックスは違うものだと思っているので、ここでは原作については触れない。

 

 

最終話について思うこと

最終話は、東北地方のアイドルオーディションのためにまちが仙台に来るお話。

しかし、まちは慣れない都会の雰囲気に気圧されて会場から逃げ出してしまう。

まちを探すなか、響はよしおに

「もうまちも嫌がっているんだしやめさせよう」

ということをいう。しかしよしおは、それに対してくまで村の昔話に例えながら、まちを村のために頑張らせるべきだ(=生贄の娘になってもらう)という。

このやりとりが、原作者が苦言を呈した部分だと推測される。でもなんというか、こういう身勝手さ、残酷さはこのアニメのこの部分に始まったことでもないような気もしたのだった。

くまみこは「所有欲」が強いアニメだと思った。緩やかにではあるが、最終話以外にもそういう部分が節々に垣間見れていた。

第1話においてもナツはまちに都会に行って欲しくないと言っていて、よしおはことあるたびに「村のため」を名目にまちを自分のおもちゃにしている。

この最終話では、これまでに見られていた所有欲が暴力的に働いた結果として、意外と自然なようにぼくは思ってしまった。

個人的には、よしおの「生贄宣言」と同レベルでナツの「まちがこの村以外で生きられなかったらいいのに」という心境を吐露したシーンも怖いんだけど。

 

この最終回、何が怖いのか

そしてお話のラストは、まちが仙台の人に石を投げられる妄想に襲われトラウマを持ち、「もう都会に行きたくない」ともらす。それにナツは歓喜し、「もう何も考えなくていいんだよ!」という。

このラストにギョッとした。

物語内部で見れば「ナツがまちを望んだ通りに所有すること」に成功したことを意味していて、それはまちがくまで村以外では生きられないようになった、という解釈も匂わせるものだ。そして、このナツの欲望というのは、実は何にも考えずにぼくがくまみこを見ていた感覚ととても似ている。村で都会っ子クイズを一生やってればおもしろいのに、というこの「終わりなき日常」的願望。まちが都会へ行かず、成長することも望まない。実はこの態度、ナツやよしおの態度と何も変わらない。そんなことをおもうと、単にサイコパスだーっていうよりもいろんな闇が深いなっておもえてしまう。

キャラクター消費(?)みたいなことを東浩紀の「動物化するポストモダン」で読んだことがあるけれど、見方によったら、視聴者の想像内で描かれる理想(=二次創作による世界の自給自足)とか、そういうものへの皮肉と解釈すると個人的に自己否定されたみたいになって不安になる。

 

まあ、ぜったいそんな批評精神とかなかっただろうけど(笑)

 

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 

 

 

ほかのひとの「くまみこ」の感想

tsurezureanime.hatenablog.com

tentama315.hatenablog.com

namakemono0308.hatenablog.com

 

みんなサムネいっしょかよ(狂気)