カプリスのかたちをしたアラベスク

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【感想】「迷家−マヨイガ」最終話まで観た/まだトラウマで消耗してるの?

 

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※このエントリーはアニメ「迷家−マヨイガ」の内容に関する言及があります、

 

 

ぼくだけなのかどうか他のひとにきいたわけじゃないから知らないのだけど、好きでやっているとはいえ、小説にしろ漫画にしろ映画にしろアニメにしろ、作品を最初から最後まで見届けるというのは結構時間と体力を使うもので、結果それがおもしろくありませんでした、とかなるとそれにかけた時間と労力のぶんだけ腹が立ってくる。

何様やねん、そういう「ハズレ作品」をつかんでしまったお前が悪い、といわれればそうだし、ぼく自身もその意見には同意だ、そしてこの世の中にそういう作品があることが悪だともおもわない。それはたまたまぼくに合わなかっただけであって、ぼくではない誰かにとっては、きっと、とてもおもしろい作品だったにちがいない。物を作ることは、物を鑑賞するよりもはるかに時間と労力がかかる、その時間と労力を使ってまで作られたものというのは、製作者にとっての「おもしろい」という確信があったはずだ、なければ、この世には出てこなかった、作るということのおもしろさであり尊さといったものはここにあるんだとおもう。

今期は岡田麿里が脚本の作品がふたつあって、「キズナイーバー」と「迷家−マヨイガ」だった。これらに関しておもうことは、先月のエントリーでちょこっと書いた。

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com

今期の2作だけじゃなく、岡田麿里の関与した作品では「心的外傷」がキャラクターや物語にとってとても重要な位置に据えられることが多い。

先に言ってしまえば、ぼくの不満はここにある。

この「迷家−マヨイガ」は特に「心的外傷(トラウマ)」をおおきく取り扱った作品で、舞台となる納鳴村では、個人の心の傷が具現化する特別な場所だ。設定としてはフィクションだからこそおもったり考えたりできるとくべつな場所を作ることができているけれど、それがリアリティをもたらすことはできていなかった、かなり雑な作りになっていたように感じられたからだ。以下、それについて、考えてみる。

 

 

世界設定に対してキャラクターが完全に負けてしまっている

納鳴村は「心の傷を持つひとだけが入ることのできる場所」であり、ナナキと呼ばれる具現化したトラウマが消えるか、あるいはそれと和解することで村から出て行くことができる。ナナキはそのひとを特徴付けるもの、つまり「そのひと特有の人間性」であり「自分そのもの」であり、そもそもそれを持たないひとなんていない。そしてナナキを失うということは、自我を失い、ひととしていられなくなってしまうことを意味する。

これに関しては、よく作りこんだなぁとおもう。しかし、この世界というのはちょっと思想が強すぎて、なんらかのメッセージ性みたいなものを導入してしまうと、途端に説教くさくなってしまう。つまり、製作者の都合が見え隠れしてしまう。

その影響をもろに受けたのが、キャラクターたちだ。

いうまでもないことだけど、人間は不可解だ。AでありながらAじゃないものでもあり、BでもあればCでもある。あらゆる要素が複雑に絡み合って、みずからが置かれたシチュエーションのなかで思考したり行動したりする。

ところが「迷家−マヨイガ」の登場人物たちには、極端にそういう面が見られない。Aという人物はAでしかなく、Bいう人間はBでしかない。

つまり、人間が持ち合わせる様々なヴァリエーションを分解することでひとりのキャラクターを作るといった設計が為されている。「わかりやすさ」を狙う際によく使われる手法で、取り立てて何かをいうようなものでもない。要は、キャラクターに役割が与えられている、というただそれだけのものだ。

しかし、トラウマという人格形成にとって深刻なものを扱ったことや、群像劇の構造をとった本作では、あまり相性が良くなかったのではないか。事態が深刻になるほど、渦中の人間には複雑な感情やら思考やらが生まれ、それが「キャラクターの存在感」につながる。しかし、1クールだけというのもあり、個々のトラウマについてどころか、主要人物のトラウマにすら、深く踏み込まれていなかった。これにより、登場人物が納鳴村というフィクションの部品でしかなくなってしまった。これじゃあリアリティもクソもなく、ただの製作者のエゴでしかない。なんていわれてもおかしくない。

 

もうトラウマとかそういうのやめません?

こんなこといってしまうと身も蓋もないのだけど、「人間〜」とか「心の傷〜」とか、ホントいつまでやんねん、とかぶっちゃけおもってしまう。メンタル的な成長とかそういう話を個人的に好まないのというところを差し引いても、ぼくがちいさなころからそんな話はあまりにも多かった、はやい話、時代遅れ感が半端ないと感じてしまった。

むかし、こんな本を読んだことがある。

心理学化する社会 (河出文庫)

心理学化する社会 (河出文庫)

 

文庫化する前のが出たのはいまから13年前なのだけど、90年代〜ゼロ年代のベストセラー作品は「障害」「壮絶な人生」を題材にしたものが多いという。

いまや「普通」は「物語の空白地帯」であり、そのことが人々の言葉から強度を奪ってしまうというのだ。受容する側にも向けられた、こうしたごくまっとうな現状批判が、なぜこれほど少ないのか。やはり皆、何ものかから癒されたがっているのか。あるいは「人は常に癒されるべきストレスを抱えている」という幻想にとらわれているだけなのか。

(中略)

ただ、もうひとつの傾向として、フィクションならフィクションでのトラウマの扱い方が、あまりにも直接的かつ図式的になっているのではないか、という懸念があるのだ。悪いのは「トラウマ」ではない。その取り扱いが、一種の紋切り型としてパターン化されていく過程のほうが問題なのだ。

斉藤環,「心理学化する社会」

ずっと前に言われていたことを、そのままやっちゃっているのが、「迷家−マヨイガ」の失敗だったと思う。世界を動かすだけのトラウマゾンビを大量に作って、かつそれがどうしようもなく時代遅れときた。

もちろん、13年前の斉藤環と同様にぼくもトラウマを題材にすることは悪いとはいわない、だけど安易に「障害」や「壮絶な人生」を持ち込んで、お化け屋敷みたいなプロットを組んだところでキャラクターに個性なんて生まれないとおもう。視聴者はそうやってつくられたキャラクターのように単純じゃない。

 

 

 

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