カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


ダリ展@京都市美術館の感想/画家の言語

この夏は行きたい展覧会がけっこうあって、そのひとつがきょう行ってきたダリ展(終わったら東京でもあるらしい)で、阪急電車、河原町で降り平安神宮まで歩いたら割と遠かった。とても暑くて、ふきだす汗が身体とTシャツをくっつける接着剤になった。だれからも電話がかかってこない平日の昼間はとても久しぶりで、ぼくはきのうに仕事をやめたばかりだった。

 

 

表現言語の身振り

ここ数年、おそらくぼくが最もわからないだろう分野である絵というものに「あえて」興味を持ち、何度も展覧会に足を運ぶのは、ぼくは画家の言葉をわかりたいからだ。つまり、いま、画家のことばというものをぼくはわからない、絵というものは、いったい何を表現するものなのだろう、といつもおもう。

このブログで何度も出しているのだけれど、

「詩には詩の言語が、映画には映画の言語が、絵画には絵画の言語がある」

ということばをボルヘスがいった。ボルヘスもそうだけど、この考え方にのっとるならば、表現というものは他のなにかから完全に自立したものでは決してないということになる、詩という表現にしろ、映画という表現にしろ、絵画という表現にしろ、それらは「言語」の介在があってはじめてなされるものであり、そういう意味では詩も映画も絵画も、ささいなペンのちがい、シャープペンの芯の太さのちがいとか、その程度のものなのだろう。

上記のように一般化された言語を仮に「表現言語」とでも呼ぶとするならば、そいつは何を語ることはできるのか。もっとも、言語そのものが何かを語ることはなくて、あくまで語るのは表現者だ、しかし、ペンはみずからが語りうるのかもしれない、円城塔の小説(たしか「これはペンです」のはず)で「わたしはわたしの筆跡すら真似することができない」というような文章を読んだようなきがする。おなじ静物画を生涯書き続けたモランディの作品群は、おなじモチーフを重ね続けたがゆえに唯一無二の表現となりえたように、言語ですらないものごと、動作の反復が、言語性を帯びることもある。それゆえに、ぼくには画家のことばがわからない。絵画という言語は、見たままに描かれているもの以上に、その言語の使われ方という文法(=技巧)があまりにも意味を持ちすぎるように感じられるからだ。

これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

 

 

 

ダリの言語

この展覧会では、

  1. 初期作品
  2. モダニズムの探求
  3. シュルレアリスム時代
  4. ミューズとしてのガラ
  5. アメリカへの亡命
  6. ダリ的世界の拡張
  7. 原子力時代の芸術
  8. ポルト・リガトへの帰還

の8章で構成されており、ダリの作品を時系列を追って鑑賞することができる。初期の作品などは印象派の影響が強く見られる画風で、1922年からのサン・フェルナンド王立美術アカデミーでの学生時代ではキュビスムやピュリスム、未来派などの技法に実験的・精力的に取組んでいる様子がわかる。

 

f:id:bibibi-sasa-1205:20160706221749j:plain

キュビスム風の自画像(サルバドール・ダリ) 1923年 板に貼り付けた厚紙に油彩、コラージュ

 

f:id:bibibi-sasa-1205:20160706222035j:plain

フィゲラスのジプシー(サルバドール・ダリ) 1923年 厚紙に油彩

 

f:id:bibibi-sasa-1205:20160706222241j:plain

巻き髪の少女(サルバドール・ダリ) 1926年 板に油彩

 

ダリの作品群に大きな線を引くとするならば、シュールレアリスム以前と以後になると思った。いや、そりゃそうだろといわれそうな気もするけれど、素人目からしても明らかなちがいが見られたというか、モダニズムの技法についての若いダリの取り組みは、表現未満の、技術的な修練だったんじゃないかとおもえた。

 

ブルトンと出会い、シュールレアリスムの活動をはじめ、追放されるまで。ここがダリの作品群で一番の見どころだったように感じる。

f:id:bibibi-sasa-1205:20160706214202j:plain

謎めいた要素のある風景(サルバドール・ダリ) 1934年 板に油彩

 

f:id:bibibi-sasa-1205:20160706223534j:plain

オーケストラの皮を持った3人の若いシュルレアリストの女たち(サルバドール・ダリ)

1936年 カンヴァスに油彩

 

ダリはここで「パラノイア的=批判的方法(偏執的批判的方法)」という独自のシュルレアリスム手法を構築した。シュルレアリスムは、自動筆記と呼ばれる「理性を介在させる暇を与えないほど高速でイメージを絞り出す」というような方法で無意識へアプローチする創作を行う。しかし、ダリはそうではない、より能動的で客観的な無意識へのアプローチを試みた。かれのことばを引用すると、

パラノイアというものは、取り憑いて離れない着想を擁護するために外部の世界を利用するし、この着想のリアリティを他のひとに受け入れさせようとするという、気がかりな性質を持っている。外部の世界のリアリティは証拠を例証するために用いられるので、わたしたちの精神のリアリティに奉仕するようになるのだ。

具体的には、ダリはイメージAとイメージBを重ねあわせるという手法をとっている。イメージAが何らかの「意味」を持つとき、同一平面上に配置されたイメージBは「その裏付け」という役割を担う。それにより「意味」の感染が連鎖的に生じ、ひとつの体系を作り上げていく。ダリの絵からはそのような印象を受けた。そういう感染的であり、越境的であることがダリの言語なのかもしれなかった、以前見たマグリットとシュルレアリスムとの立ち位置(理性的、客観的であること)がどうしても似ている印象を受けてしまうけれど、決定的な違いがあるとすればここかもしれない。

ダリには彼の作品で多用される青く深い広大な空のような果てしなさがある。

 

 

あわせてどうぞ

 

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com