カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


「芥川賞候補作全作レビューと受賞予想」の記事を寄稿しました/没個性の文学について

※このエントリーでは小説「あひる」「美しい距離」「コンビニ人間」「ジニのパズル」についてのネタバレを含む言及があります。

 

 

ひさびさに芥川賞候補作を全作読んだので、KAI-YOUさまで記事を書かせていただきました。

kai-you.net

ツイキャスでも友人の宇野さん(@cori_uno)となんちゃって選評合戦みたいなこともしましたが、今回おもうことは、ひとによりかなり評価が分かれそうということです。

ぼくがあまり高い評価を出さなかった山崎ナオコーラさんの「美しい距離」を高く評価している批評家も複数名いたりして、個人的にはとても驚きました(超失礼)。

 

寄稿記事では「普段あまり小説を読まない方」も想定していたため、書ききれなかった内容をここに書いておこうとおもいます。ちょっと「芥川賞」という文脈からそれた見解から、今回の作品群を見てみます。

特に、ぼくが注目したいのは

「あひる」今村夏子

「美しい距離」山崎ナオコーラ

「ジニのパズル」崔実(チェシル)

「コンビニ人間」村田沙耶香

の4作品です。

 

 

パッケージ化された人格について

上記にあげた4作品では、いずれにも「没個性」的な人格と物語の関係が見られました。例えばそれをタイトルから象徴しているのは「あひる」です。

文学ムック たべるのがおそい vol.1

文学ムック たべるのがおそい vol.1

  • 作者: 穂村弘,今村夏子,ケリールース,円城塔,大森静佳,木下龍也,日下三蔵,佐藤弓生,瀧井朝世,米光一成,藤野可織,イシンジョ,西崎憲,堂園昌彦,服部真里子,平岡直子,岸本佐知子,和田景子
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2016/04/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (7件) を見る
 

この小説では「のりたま」と名付けられたあひるを飼っているのですが、のりたまはすぐに死んでしまいます。しかし、主人公の両親はその死をなかったことにして、おなじ「のりたま」として新たなあひるを飼い始めます。それだけでなく、のりたまを目当てに家に遊びにくる子どもたちがいて、かれらは主人公の家に居着くのですが、ひとりとしてかれらの名前は出てこない。両親も子どもの名前には無頓着で、ある子どもの誕生日会をするとなっても、誰の誕生日なのかを把握していません。このように、「あひる」が「のりたま」である必要がなく、「子ども」が特定の誰かである必要すら作中ですら要求されず、登場するものたちの「属性」しか要求されていないというところが、この小説や、主人公であるはずの「わたし」の存在感のなさを不気味なものにしています。

 

美しい距離

美しい距離

 

「美しい距離」では、それがキャラクター単位のものでなく、没個性的なシチュエーションに置き換えられます。若くして大病を患った妻、そして彼女を看取る主人公に対して、かれらを取り巻く登場人物たちはやたら悲しんだり、共感したりしようとします。やがて来るだろう死や悲しみを理解するために、人々は主人公と妻が置かれた状況を定型化された物語に落とし込みますが、そこからはどうしたって個が排除された悲しみしか生じない。主人公はそれを拒絶し続けます。じぶんの目が届かない場所を感じたり考えたりするための想像力、「物語化する」という行為はどこか「小説を書く」という行為にも通づるものがあり、そういう意味において「アンチ小説」な視点を持った作品だと読みました。

寄稿した記事では本作の評価をぼくは低くつけましたが、上記の点で本作は優れていると思いますし、かなりの野心作なのではないかと思います。死というものが絶対的な悲しみであるという強迫観念から要求される「理解」や「共感」の暴力的な側面が描かれていると読めば、看護小説の枠組みを超えた領域で議論されてしかるべき作品でしょう。

 

文學界2016年6月号

文學界2016年6月号

 

そして、上記2作とはまったく違う立ち位置で「没個性」を扱ったのが「コンビニ人間」です。「あひる」と「美しい距離」が没個性であることに対しての大なり小なりの嫌悪がにじみ出ていたのに対し、本作では(あくまで語り手にとって)全面的な肯定、「救い」が描かれています。他人と同じようにできない、期待される「人間らしい振る舞い」がどうしてもできない人間が、「コンビニ店員」というパッケージ化された人格をまとうことで逆説的に自己同一性を獲得するという小説です。もちろん、主人公の狂い方もあり、読者が彼女と同じように没個性であることに救いを感じることはむずかしく、やはり本能的に嫌悪感を抱くかもしれません。

しかし、ネット上ではしょっちゅう「社会不適合な俺」というような文章が吐き出されている現代において、極論という形ではありますが、示唆的なものであることに間違いないだろうとぼくは思います。

ぼくも他人事じゃないのですが、近年、生きていくということが「社会貢献」という大きな物語を目指すものではなく、ほんとうにシンプルに自分や自分のまわりのひとを不幸にしないように生きることの方が圧倒的に意味を持つようになった、とか言われたりもします。「社会に適合できない俺」にアイデンティティを見出し、悦に浸るという生き方もあるのですが、自分しか作り出せないものを創出する力がない限り、雇われたり仕事をもらったりしないと生きてはいけない。そのためには他者や社会に同調する必要が生まれてきます。なんだか、最近の新卒フリーランス騒動を想起させますね。はてな界隈の方には是非とも読んでほしい一作です。

ただこの話、なんとなくわかる人にはわかるかもしれませんが、少し前に議論されていたような内容でもあります。あと10年早く出て欲しかった。10年早ければ間違いなく大傑作だったと思っています。

 

ジニのパズル

ジニのパズル

 

「ジニのパズル」で語られる没個性は、他の3作よりもスケールが異なります。スケールというか、これはもう国籍であり民族であり、そういったレベルのことを含んでいるということになります。また、上記3作と最も異なるのは関係性で、個をパッケージ化された人格(物語)にはめ込むのではなく、個がパッケージ化された人格(物語)までも引き受けるというものになっています。簡単に言えば、「日本人としての私」とか「朝鮮人としての私」とかでしょうか。そうなれば求めるものも変わってきて、そういう視点から「自分」を見出すのではなく「自分の居場所」を探すといったところに切実さが現れてきます。日本文学ではあまり見ないようなものですが、実はこれ、国の歴史も浅く、移民で構成された国であるアメリカの文学では、非常に大きなテーマとして頻出します。個人的にこれと関連して読んでいただきたいのは、小説ではなく、イサム・ノグチの伝記です。

イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)

イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)

 
イサム・ノグチ〈下〉―宿命の越境者

イサム・ノグチ〈下〉―宿命の越境者

 

 

まとめ

みんなで芥川賞を盛り上げようぜ!

 

 

あわせてどうぞ

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com