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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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ブログの自由さは小説の自由さを奪うのか。木下古栗の[創作論]と現代芸術について。

音楽 読書 日記

”Ricochet” Andy Akiho(いわゆる「ピンポン協奏曲」)

 

現代芸術が好きだ、そうおもうようになったのは二十歳ぐらいの時で、当時は大学の授業はサボれるだけサボって、ずっとクラシックギターを弾いていた。大学に入学するまでは瀬戸内海に浮かぶ島の片田舎で育って、年に数回ぐらいしか本土に出て電車に乗る機会もなかったから美術館やコンサートへ出かけたりもしなかったし、好きな音楽は「ゆず」くらいだったし、町の小さな図書館にはドストエフスキーやカフカぐらい有名な世界文学か、熱心な読書家じゃないひとからしたら「文学」というよりは「資料」といった方がしっくりくるような蔵書しかなくて、なによりも音楽や絵画や文学のことを教えてくれるひとがいなかった。それだけじゃない、ぼくが高校の時なんてインターネットはあるにはあったけれど、ぼくの実家には導入されていなかったし、2ちゃんねるこそあったけれど、YoutubeやTwitterも存在していなかったから、日本の、この世のどこかにぼくが二十歳を超えたあたりにいて欲しかったようなひとがいて、そんなひとと気兼ねなく話せたりするような日が来るなんて、全く想像すらできなかった。

 

 

あらためておもえばどうして現代芸術だったのか

文学であればトマス・ピンチョンが好きで、絵画であればパウル・クレーやジャクソン・ポロックとかが、音楽では武満徹やウィリアム・ウォルトンが好きだった。

(現代というよりはモダンか?よう知らんけど)

 

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「カット・アウト」ジャクソン・ポロック(制作年不明)

 

なぜ好きなのかということを意識的に考えたことはなくて、けっこう「なんとなく」ではあるのだけれど、「古典的なもの」にはどうしても窮屈さを感じてしまうという消極的な理由というのが、わりと無視できないレベルであったりする。

たとえば小説でいえば、いわゆる「小説らしい小説」というのがどうも苦手で、作品としておさまりの良いものには、その完成度の高さゆえに様式に引きずられるような、あるいは物語に先天的に備わってしまっている主題を代弁するといった恣意的な構造が透けて見えてしまうとどうも苦手で、島崎藤村「破戒」を最近読んだのだけれども、これはちょっと読むのに苦労してしまった。

破戒 (岩波文庫)

破戒 (岩波文庫)

 

 

もちろん、小説(に限らず他に芸術と一括で呼びうるものすべて)は決して自由になにをやってもいいというわけではないと思う。

また、創作者がじぶん以外のだれかを一切想定しないのであればそれこそなんでも小説と呼べたり、音がなくても音楽と呼べたり、目に見えないものでさえ絵画と呼べるような自由があってしまうだろう。しかし、ときに自由さというものは表現の強度を奪ってしまうこともある。ぼくは芸術がすべてのひとに開かれてしかるべきとはあまり思っていなくて、ルールというのはむしろ、創作者以外に芸術というものを開き、共通理解し得るものにするためじゃなくて、創作者の発想の強度を最大限に引き出すためにあるのではないかっておもう。ルール、あるいは表現の形態や形式が強固であるからこそ、その内部に置かれた創作者は「自由」であるためには激しく運動することが求められる。そして自由の渇望のあまり、ルールを食い破ろうとする運動会こそ、現代芸術が到達した場所なんだとおもう。

 

※そのルールの強固さが際立っている(同時に高度に洗練された形式でもある)ものが「短歌」であり「俳句」であるのだと思うけれど、その詳細な議論については友だちの山本浩貴+h(id:hiroki_yamamoto)がものすごい密度でまとめているので、ぼくにはほとんどいうことが残されていない。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/07/56_17.html

 

木下古栗が書いた創作論について

小説家の木下古栗が以下のように書いていた。

小説は虚実にかかわらず何かを書いたり、文章実験に特化したり、他の文学形式、及び文学とは見なされなかった分野の文章なども貪欲に取り入れたり、それらの要素を「語り」の中に取り込んだりもできる「何でもあり」の野生的な文学形式だった、何でも如何様にできも「語る」ことが、少なくともそう試みることができた。つまり方向を限定された独自性などないという独自性が魅力だった。しかしそれゆえに、それよりも遥かに「何でもあり」の、遥かに何でも取り込むネットが人間の文章の読み書きの比重として大きく、一般的になった時、その特性を失いつつあるのではないだろうか。

木下古栗,[創作論]表現と書く技法(「文藝」2016年夏号)

木下古栗がいう「遥かに何でもありのもの」とは具体的にはブログを指す。

かれの作風は、既存の文学で用いられた手法を用いて、至極くだらない(というか何も意味しない空疎で低俗な)内容の小説を「でっちあげる」といった、人を食った(バカにした?)ような作品が特徴で、実際に「新しい極刑(すばる2013年10月号)」という作品ではMANCOなる前衛芸術団体を中心に据えた、芸術や科学(主に「脳のなかの幽霊(ラマチャンドラン)」)の雑記的内容のコラージュで構築された「ポストモダン的」作品だ。

すばる 2013年 10月号 [雑誌]

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脳のなかの幽霊 (角川文庫)

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上述の[創作論]の引用部では、木下古栗は自身の過去の文学的態度(とくに「新しい極刑」で見られたような者)を否定しているようにもおもえる。

雑記的な内容を寄せ集め、さらにハイパーリンクさせることが可能であるブログというメディアで文章を書く者が増えてしまったら、このようなジョイス「ユリシーズ」ピンチョン「重力の虹」というモダン、ポストモダン作品の典型である百科事典的な、世界を記述する網羅的な手法というものは、時代やテクノロジーにより衰退していくという警告であるようにおもえた。

ユリシーズ 文庫版 全4巻完結セット (集英社文庫ヘリテージ)

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トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

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トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

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ぼくはこの木下古栗の[創作論]を読んで、今後「小説」を「小説たるもの」とする規則がどうなるのだろう、とぼんやり考えた、同時にはたしてこれまでもそんなものがあったのだろうか、とも考えた。たしかに小説が木下古栗がいうような「あらゆる記述形式を語りのなかに取り込むことができる、野性的で自由な形式」であるとおもう。そして正直に言えば、それに対して木下古栗のように不安に思っていない。ウェブメディアのようにハイパーリンクすること多次元的な構造を物理的に持たず、あくまで紙の上における文字列の1次元的な配列により構成される散文表現である限り、「語り」という技法が小説の魅力であり、自由さの象徴であることは変わらないとおもう。というよりも、山本浩貴+hが俳句を舞台に言及した通り、限られた空間内で求められる急速な世界の構築、が顕在化するとおもう。

表現することに自由など、おそらく創作者に与えられていない。

表現手法が多様化するにつれ、表現することの自由を勝ち取るための闘争が求められているような気がしてならない。

 

 

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